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Sunday, February 18, 2018

浦島悦子「山の桜は泣いた――2018名護市長選」Urashima Etsuko - A Reflection on 2018 Nago Mayoral Election

浦島悦子さん
先の名護市長選では、辺野古新基地に反対の姿勢で2期務めた後の現職・稲嶺進候補を、基地を推進する勢力が推薦した渡具知武豊候補を破って新市長となりました。この市長選について、名護市在住の作家、浦島悦子さんが振り返った文をここに紹介します。これは『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』用に提供され、ガバン・マコーマックらが翻訳した英語版の記事

Five Okinawan Views on the Nago Mayoral Election of February 2018: Implications for Japanese Democracy

の浦島さんの分の日本語版です。沖縄から5人の声ということで、浦島さんの他に山城博治さん、吉川秀樹さん、宮城康博さん、伊波洋一さんが寄稿しています。吉川さんのものは元の原稿が英語でした。日本語で提供された4原稿はまとめてこのリンクで読めます。

名護の桜 (提供 浦島悦子)


山の桜は泣いた――2018名護市長選

浦島悦子


 
「山の桜が泣いている 金か誇りか 名護マサー」。 

20 年前の「(新基地建設の是非を問う)名護市民投票」(1997 年 12 月 21 日実施)の頃、名護市街地 の入口に、こう書かれた大看板が掲げられていたのを思い出す。桜(ヒカンザクラ)は、日本一早い「さ くら祭り」(毎年 1 月最終週末)で知られる名護の象徴であり、「名護マサー(勝り)」はナグンチュ(名 護人)の気質を表す言葉だ。

2 月 4 日に投開票された名護市長選をめぐる熾烈な攻防の真っただ中で 20 年前の看板を思い出したの は、あれ以来、今回で 6 回目を数える市長選のたびごとに、有権者数 5 万足らずの小さな地方都市の選 挙に時の政権が直接、総力を挙げて介入する異常事態が繰り返され、今回はとりわけその異様さが突出 していたからだ。



 昨年 12 月 26 日、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で開かれた「座り込み 5000 日集会」で挨拶 した稲嶺進市長は、新基地建設に終止符を打つためになんとしても 3 選を勝ち取る決意を述べるととも に、「あちこちに『魔の手』が伸びている」と指摘した。それは決して比喩ではなかった。選挙期間中ずっと、私は、大好きな名護が汚い泥靴で踏みにじられていく悔しさ、得体のしれない黒いものが至る所 に触手を伸ばしてくる気味悪さを感じ続けていた。

年末から年始にかけて、菅官房長官や二階・自民党幹事長が名護入りし、振興策の大盤振る舞いや新 基地計画の地元・久辺 3 区(辺野古・久志・豊原)への直接補助金などを口約束したのをはじめ、安倍 政権の大臣らが自公推薦の渡具知武豊候補の応援に次々と来沖した。彼らは表に出るのではなく企業回 りを徹底し、ふんだんなカネ(官房機密費 10 億円が使われたという噂もある。その源泉はもちろん国民 の血税だ)を使って水面下でさまざまな工作を行った。

企業動員・締め付けや、事実とは真逆の謀略ビラを大量にばらまくなどはいつもの手口だが、今回は、 私の住む「二見以北」地域(久辺 3 区に隣接する稲嶺市長の出身地)にも分断の手が伸びた。「市長や知 事が反対しても基地は造られてしまうから、代わりに振興策を」という趣旨で「二見以北を考える会」 という団体が昨年末に発足。二見以北の各区(10 区)に役員を置く住民団体という体裁を取っているが、 その事務所は渡具知候補の地域事務所内にあり、住民が自発的に結成したものでないことは明らかだ。しかし、新基地建設に向けた工事が目の前で進む様子を日々見せつけられている地域住民への影響は小 さくなかったし、地縁血縁の濃い地域に動揺と亀裂、疑心暗鬼を生んだ。



渡具知武豊候補は名護市議会議員を 5 期務めたものの人望がなく、市長選出馬に自民党本部がなかな か同意しなかったといういきさつもあり、当初、稲嶺支持者の中に楽勝ムードもあったことは事実だ。 私は最初から、相手候補が誰であろうと、これは安倍政権との「全面戦争」であり、4 年前の選挙と違っ て 18 歳選挙権が施行されたため 6 年分の新有権者がいること、基地問題や政治に無関心な若者たちの動 向を考えると相当に厳しいと思っていたし、それを繰り返し言っても来た。選挙戦の中でその危機感はいっそう強まったが、一方で「名護市民の良識」を信じてもいた。勝っても負けても僅差と言われてい た中で、選挙結果(渡具知武豊 20,389 票、稲嶺進 16,931 票、投票率 76.92%)の約 3500 票差はショッ クだった。

敗因は何か。地元紙などでも言われているように、「稲嶺陣営に緩みがあった」のも、「候補者(稲嶺市長)の人望や人気に頼りすぎた」のも否定できないが、辺野古新基地建設を至上命題とする安倍政権が「日本の命運をかけて(翁長雄志県知事の言葉)」、基地建設を阻む稲嶺市長を何としても潰そうと、権力と金力を最大限に使って襲いかかってきたのが今回の選挙だった。その恐ろしさを、一生懸命に選挙活動した人ほどひしひしと感じていたと思う。一言でいえば「嘘とデマで塗り固めたカネまみれの選 挙」だが、その手口は巧妙を極めた。

彼らはまず、「新基地建設工事が着々と進んでいて、もう後戻りできない」ことを印象付けるため、人目に付く部分での工事を加速させ、市長や知事がいくら頑張っても駄目だという「あきらめムード」を植え付けることに一定程度成功した。稲嶺陣営は「埋め立て工事はまだ1%程度しか進んでおらず、十分に止められる」ことを広報し、地元紙も工事の現状を報道したが、一般市民には十分に届かなかった。(私は、名護市長選前に翁長知事が「埋め立て承認撤回」を行ってくれることを望んでいた。そうすれば流れは変わっていたかもしれないと思うが、そうはならなかった)。こうして外堀を埋め、自民党は企 業や職場、公明党は地域へと、それぞれが得意分野で票の取り込みに奔走した。

前回市長選では自主投票だった公明党が、今回は渡具知候補の推薦を決めたことは大きかった。彼ら は、県内はもちろん全国動員で 1000 人とも言われる運動員を恩納村にある創価学会の合宿所に集め、そ こから連日、100~200 台のレンタカーで名護入りした。広い名護市の各地域の隅々まで入り込み、「優 しく」、ある時は強引に説得活動を行い、そのまま期日前投票所へと運んだ。彼らはなぜか、どこの家に高齢者や障害を持つ人がいるか、どこの家が生活保護世帯かなどをよく知っていて、それぞれに見合った説得や対応をしていたという。自民党による「企業ぐるみ」と、公明党による「地域掘り起こし」、こ れに対抗して稲嶺陣営も期日前投票を呼びかけたため、期日前投票数は 21,622 と有権者の 44.4%、当日 投票数の 15,522 を 6000 票以上も上回った。ここにも今回の選挙の異様さが如実に表れている。

渡具知候補は、公明党が推薦の条件とした「海兵隊の県外・国外移転」を政策に入れ、これまでの新基地積極容認の姿勢を封印したため、稲嶺市長との違いが一般市民にはわかりにくくなった。そのうえで、学校給食費や保育料の無料化をぶち上げ(その財源と想定される米軍再編交付金は、基地受け入れ と引き換えであり、しかも経常経費には使えないのだが)、子育て世代の関心を集めた。

渡具知陣営による稲嶺市政へのネガティブキャンペーンもすさまじかった。米軍再編交付金に頼らず とも市の予算を 2 期 8 年間で 508 億円増やし、市内全小中学校の耐震化・水洗トイレの完備、保育所の 待機児童もほぼゼロになるなど、稲嶺市長が「基地問題以外はすべて公約を達成した」と胸を張る実績 を上げているにもかかわらず、「失われた 8 年」「停滞」「閉塞感」などの言葉を大量に流布した。「嘘も 百回言えば本当になる」「悪貨が良貨を駆逐する」ことを思い知らされた選挙でもあった。

各メディアや大学生など若者たちが両候補に公開討論会や候補者対談、意見交換会などを要請したが、 渡具知候補はすべて(8 回も!)拒否し、政策論争は全くしない一方で、人の心理がよく計算された簡潔 で印象の強いチラシ(稲嶺陣営の広報班もよく頑張っていたが、チラシは市長の実績を伝えたいあまり 説明が多かった)を人海戦術で隅々まで配布した。表の選挙活動が終わる午後 8 時以降に動き出す「闇 の部隊」がいて、「1 票 10 万円で買っている」などの噂も流れていた。

公開の場で政策論争を行い、有権者が主体的に選択するのが選挙なら、こんなものはとても選挙とは言えない。選挙制度も民主主義ももはや死んだ。主権者である私たちがなぜ、選挙のたびごとに「金か 誇りか」を迫られ、人間関係をズタズタにされ、苦しまなければならないのか? あまりにも理不尽だ。



今回の選挙では若い世代ほど渡具知候補を支持した。2 年前に名護出身の 20 歳の女性が元米海兵隊員に惨殺され、この 1 年来、「あわや大惨事!」の米軍機の事故が相次いでいるにもかかわらず、人命や暮 らしが危険にさらされていることを、彼らはあまり感じていないのだろうか? 渡具知氏の娘が今回選 挙権を得た高校 3 年生で、「お父さんを応援して」という彼女の呼びかけがSNSでネズミ講式に広まっ たと聞く。稲嶺支持のある若者が渡具知支持の若者たちの集まりを覗いてみたところ、政策の話は全くなく、「仲間だよね」「仲良くしようね」と、ひたすら情に訴えることに終始していたという。「今どきの若者」たちは優しくて、争いを好まない。政策論争などは求めていないようだ。「稲嶺さんはよく頑張った。かわいそうだから、もう重荷をおろしてあげよう」という「優しい」メッセージが若者たちの間で 広まっていたというが、それは彼らの心情にぴったりマッチしたのだろう。

若者や女性に人気が高いと言われる自民党の小泉進次郎氏が 2 回(1 月 31 日と投票前日の 2 月 3 日) も名護入りしたのも異例だった。名護市役所前にある渡具知候補の選対本部周辺は、街頭演説する小泉氏を一目見ようと、スマホを片手にした若者たちで埋め尽くされ、集まった人たちは集会後、そっくり、 市役所近くにある期日前投票所へと誘導されたという。

しかし、今回の選挙で私が感じた大きな希望は、そんな中で、稲嶺陣営で活動した若者たちの存在だ。それはこれまでの選挙にはなかった新しい動きだった。選対本部には連日、若者たちが夜遅くまで議論し、稲嶺市政の政策について学ぶ姿があった。彼らは自ら主体的に考え、企画し、行動に移した。相手陣営の宣伝にどう対抗するかを徹底議論する中で、なぜ基地に反対するのか、市民のための市政はどうあるべきなのかについて、多くのことを学んだと思う。相手陣営の若者とも話し合い、公開討論会に向けて積み上げてきた努力を土壇場で一方的に反故にされ、努力は実らなかったが、その中で彼らは大き
く成長した。名護の未来のために、この新しい芽を育てていくことが私たち大人の責任であり、仕事だ。 稲嶺進さんにはその中心を担ってほしいと願っている。



誠実で公平無私、市民の幸せを阻害する基地建設を断固として阻み、子どもたちの未来、名護の未来のために奮闘し、基地に頼らない市政運営、経済を実現してきた稲嶺進という稀有のリーダーを、私たちが全国からの応援を得つつも力不足で落としてしまったことは痛恨の極みだが、これに負けてはいられない。考えうる限りのあらゆる卑劣な手口を使って彼らが手に入れた「勝利」は、いずれその正体が 市民の前に明らかになるだろう。

投開票の夜、私は、市長選と同時に行われた名護市議会議員補欠選挙の開票立会人として開票所に詰めたが、結果が出ての帰り道、渡具知選対本部の前を通った。「勝利」に沸く黒い人だかりに「名護が乗 っ取られた」ような違和感を覚え、この汚い手から「名護を取り戻す」決意を胸に刻んだ。

今年は選挙イヤーだ。息つく暇もなく、沖縄県内でも各市町村の首長選が続き、9 月には名護市議会議 員選挙、そして 11 月には「天王山」の沖縄県知事選挙が行われる。名護市長選挙で味を占めた安倍政権 が同じような手口で襲いかかってくることは目に見えている。この 6 月にはいよいよ、辺野古の海に埋 め立て土砂の投入を開始すると報道された。知事選前に県民の「あきらめ」を促したいのだろう。

辺野古新基地反対運動は今後ますます厳しくなり、国家権力による暴力も強まるだろう。しかし、大浦湾の海底地盤の脆弱さ、活断層の存在などの自然条件も含め、工事がそう簡単に進まないことも明ら かになりつつある。私たちが 20 年間決してあきらめなかったからこそ、基地はまだできておらず、大浦 湾はその美しさを失っていない。海と陸双方で現場のたたかいによって工事を遅らせること、国内外の世論を高めること、そして、ズタズタにされた地域の絆をもう一度結びなおすことで、これからしばらく続くであろう「冬の時代」を乗り切っていきたい。宮古・八重山を含む沖縄の軍事要塞化を目論み、憲法を変えて戦争への道を突き進もうとする安倍政権に何としても歯止めをかけたい。沖縄で起こっていることは、すぐに日本全体に波及するだろう。これは沖縄問題ではない。日本各地、それぞれの場で の反撃を強く望みたい。



今年の「名護さくら祭り」は市長選の告示日と重なった。まさに「戦争」そのものだった選挙戦を経て、投開票日からの数日間、名護もぐんと冷え込んだ。冷たい雨に打たれ、名護城(ナングスク)山の桜は泣きながら散った。しかし、散った桜はまた新しい芽を宿し、来年、美しい花を咲かせてくれるだ ろう。私(たち)もまた、新しい一歩を踏み出したのだ。


花散らす冷雨に 負けるなよ桜
    時来ればまたも 花や咲きゅる

(はなちらすしむに まきるなよさくら
    とぅちくりばまたん はなやさちゅる)

=花を散らす冷たい雨に 桜よ負けるな
    時が来れば再び 花は咲くだろう


17年12月7日午後、キャンプ・シュワブ前で資材搬入に抗議する。後姿だが、中央でマイクを握るのが浦島悦子さん。(撮影 乗松聡子)

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Sunday, February 11, 2018

ジョン・フェファー: 貧しい国々を何十年もクソ溜めのように扱ってきた米国 John Feffer: The U.S. Has Treated Poor Countries Like Shitholes for Decades

 トランプ米大統領は1月11日に、中米やアフリカの移民をクソ溜め」 (shithole) という汚い言葉を使って罵倒した

 今回紹介するジョン・フェファー氏の文章はこれを受けて書かれたものだが、トランプを糾弾しつつ、外交政策においては米国というシステムが継続しているだけだということがよくわかる。

 トランプが『ある意味で米国を侵略し、彼お得意の「炎と怒り」を自国で解き放った』とフェファー氏は書いているが、ウォルマートに代表される巨大ショッピングモールがアメリカの地域経済を破壊してしまったことは1990年代から指摘されていたし、リーマンショックの衝撃はローンで住宅を買った人々を直撃したのに金融機関は税金で救済された。それでも米政府は国民のために政治を行っているというタテマエが、オバマ政権まではあったのかもしれない。このタテマエをトランプは破壊し、米国の化けの皮が剥がれただけのことだろう。

 そして露わになったのは、自分の仲間とは感じられない「よそ者」の住む「クソ世界」を搾取することで成り立っている帝国主義と植民地主義の構造が、入れ子のように自国内にも存在するという米国の姿だ。

 自国民の99%を「クソ溜め」扱いするのは日本も同じだ。沖縄が日本政府にとってのクソ溜めであるのは言うまでもないし、原発もクソ溜め地域に押し付けたのだ。大企業と富裕層を利する政策は明らかで、もはや日本は大量の非正規雇用労働者によって維持される状態になっている。正社員でさえ裁量労働制によって実質的な時間給の切り下げが行われた。それでもなお自民党的政策を支持するのは、「会社を守る政策が自分の生活を守ってくれる」という刷り込みだ。自分を会社にアイデンティファイ(同一視)し盲目的に従うイデオロギーのようなものは、アメリカ第一主義の鏡像のように見える。

 トランプで世界が悪くなったと思っているリベラルは、「昔はタテマエが生きていたから良かった」と感傷的に思っているだけということになろうか。世相が露骨にギスギスしてきたという点ではその通りかもしれないが。

 善良なタテマエの崩壊という現象は、自動車の「顔」がリーマンショックを境に「ワル化」したことによく現れている。自動車のスタイリングは綿密な市場調査に基づいて決定されるので、世相をかなり反映する。
20世紀末までは、能面で言えば「小姫」のような、ふくよかで柔和な顔が主流だったのに、21世紀的スタイルはすっかり「般若の面構えになってしまった。ワルを気取ってヘイトを吐き出すことへの心理的抵抗が失われてしまったかのようだ。

 これは、リーマンショックに典型的に現れた社会の真の姿、民主主義の仮面の下に隠されていた容赦ない金持ち優遇に対する、被害感情や怒りが世間に満ちてきたことの表れだろう。そのような感情を利用して、トランプが大統領にのし上がった、つまりトランプが世界を壊したのではなくて、世界が壊れた結果としてトランプが大統領になったという因果関係なのだと思う。


原文:The U.S. Has Treated Poor Countries Like Shitholes for Decades

http://fpif.org/u-s-treated-poor-countries-like-shitholes-decades/

(前文・翻訳:酒井泰幸)
翻訳はアップ後微修正することがあります。


貧しい国々を何十年もクソ溜めのように扱ってきた米国


トランプの人種差別発言は侮辱的だ。もっと悪いのは、米国外交政策の残忍な横暴だ。

ジョン・フェファー著、2018年1月17日



米国がノルウェーに侵攻したことはない。米国がオスロを爆撃したことはない。米国がノルウェー人を一斉検挙してグアンタナモに送ったことはない。

米国の外交官の中には、ノルウェーの料理が味気なくて夜遊びが退屈だという理由で、この国を「クソ溜め」(shithole) と呼ぶ人がいるのかもしれないが、重要なのは米国がノルウェーを「クソ溜め」として扱ったことはないということだ。

言葉と行動とでは雲泥の差がある。

ドナルド・トランプは先日、米国はアフリカや、ラテンアメリカ、カリブ海の「クソ溜め」諸国からの移民受け入れを止め、代わりにノルウェーのような所から人を連れてくるべきだとコメントして、ますます結束を強める彼の支持基盤を別にすれば、あらゆる人々を憤慨させた。

ボツワナやハイチからエルサルバドルまで、そしてノルウェーさえも、各国政府はトランプ大統領を非難した。国連人権高等弁務官のルパート・コルビルは、トランプ大統領を「人種差別主義者」と呼んだ。数人の共和党議員まで、この最高「誹謗」官から距離を置くようになった。

だがこの怒りの全ては途方もなく的外れだ。トランプは米国外交政策の根底にある原理を言葉にしただけだった。政策立案者が少なくとも公にはそう呼ばなかったとしても、米国は各国を何十年にもわたり「クソ溜め」のように扱ってきた。

トランプは人種差別主義者で、うっかり口走る陰口は侮辱的だ。そこに疑いの余地はない。だが本当に有害なのは言葉よりも、実際の米国外交政策のほうだ。ではなぜ人々は、はるかに残忍な米国外交政策の横暴ではなく、ドナルド・トランプの率直な言葉に憤慨するのだろうか。米国政府内にいる大勢の人種差別主義者たちが同じように考えていることを、ただ口にしただけなのに。


侮辱の後には流血が


あらゆる軍隊では敵を非人間化するように兵士を訓練する。敵を人と思うなら、眉間を銃で撃つのはとても難しい。

同じことが国についても言える。ある国を文明国だと思うなら、そこを爆撃して石器時代に逆戻りさせるのはとても難しい。

米国は1世紀以上にわたる帝国主義的野望の中で、長らく他の国々を「クソ溜め」扱いにしてきた。アメリカ帝国の初期、米国はフィリピンに、よそ者の土地という汚名を着せた。セオドア・ルーズベルト海軍次官が言ったように、そこは「野蛮人、未開人、粗野で無知な種族」でいっぱいの場所だった。このような言葉の上での非人間化によって、米軍は2万人のフィリピン兵を殺しやすくなり、3年間で20万人以上のフィリピン民間人が死んだ戦争は遂行しやすくなった。

朝鮮半島とベトナムのどちらも、北側は冷戦時代に同様の「クソ溜め」扱いを受けた。朝鮮人とベトナム人は、幾世代か前のフィリピン人と同様に、口汚い言葉による非人間化で苦しめられた。もっと悪かったのは集中爆撃を耐え抜かなければならなかったことだ。当時は、村を救うためには破壊するという時代だった。ある場所がそもそも「クソ溜め」ならば、この種の論法に何もおかしいところはない。

地政学的な理由で、ベトナムは米国のお気に入りの国に復帰した。結局のところ、ベトナムは中国に対して打ち込むくさびの役割を果たしている。

北朝鮮は別問題だ。それは「邪悪な政権」が統治する「地球の災いの元」だと、トランプは昨年の国連総会演説で言った。トランプの悪口は、北朝鮮指導者の金正恩(キム・ジョンウン)を国際刑事裁判所に送ろうという運動とは無関係だ。トランプは人権に関してほとんど関心がなく、どのみちトランプは(ウォール・ストリート・ジャーナルによれば)金正恩と「非常に良好な関係を現に持っている」か、あるいは(トランプ自身によれば)「今後は良好な関係を持とう」と考えている。まったく、誰が動詞の時制など気にするだろうか。肝心なのは「良好な」という形容詞の方だ。この二人は似たもの同士だ。

人権のことなどどうでもいいのだ。トランプは北朝鮮を言葉の上で破壊することで、今後起こるかもしれない北朝鮮への軍事行動にアメリカ国民を備えさせている。-最近の韓国・北朝鮮の雪解けににもかかわらず、トランプが検討し続けている選択肢である。このようにして侮辱 (insult) は流血 (injury) に先行する。

だが米国は「クソ溜め」と呼べる場所を見つけるだけではない。「クソ溜め」を作り出すこと自体が米国の仕事だ。


風の種をまいたなら、刈り取るのはクソの嵐


9.11以降、米国が採った強引な外交政策は、「クソ溜め」国家を次々と作った。

ブッシュ政権はアフガニスタンとイラクに侵攻した。オバマ政権は裏で糸を引いてリビアの政変を起こした。まずオバマが、続いてトランプが、シリアの泥沼に踏み込んだ。米国特殊部隊は、かつて第三世界と呼ばれた(そして今、トランプによれば、「クソ世界」に改称すべき)国々のほとんどに関与している。

アフガニスタンとイラクでは、残忍に統治されていた国々を正真正銘の「クソ溜め」へと作り変えるのに、米国が中心的な役割を果たした。リビアとシリアについては、両国の実質的な崩壊を加速するのに米国政府が一役買った。国作りと紛争後の復興などどうでもいいのだ。過去20年ほどの間、米国は物事を元通りにするよりも壊す方に、ずっと長けていた。

トランプは最近のコメントで、アフガニスタンを「クソ溜め」と名指ししなかった。そうする必要など無かった。トランプのこの国に対する政策は彼の見方を如実に表している。

「本気になった」と、国防総省は喜んだ。アフガニスタンで去年の8月から12月までの間に、2015年と2016年を合わせたのとほぼ同じ回数の空爆を米国政府は実施した。米軍は現在、(オバマ時代の政策だった)アフガニスタン軍の防衛だけではなく、タリバンに対する攻撃をどこでも、そしてあらゆる場所で実施し、これが昨年、16年にわたる戦争のどの時点よりも多くの民間人死者を出すことにつながった。

これをふまえて、私たちはトランプと彼の移民についての惨めな見方へと立ち返る。アフガニスタンは依然として(シリアに次ぐ)世界第二の難民発生地だ。リビアとイラクでは人口流出が続いている。他にも移民を送り出している国々はある。エルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラ、ハイチ、コンゴで、人口のかなりの部分が追い出されたのは、暴力や経済的混乱、社会不安のためだが、これを作り出した中心的存在として米国を挙げることができる。原因となったのは、残忍な独裁体制を米国が支持したこと、米国による的外れな経済計画、そして米国内の麻薬市場だ。

言い換えれば、近年ヨーロッパと米国に入ってこようとしている大勢の人々は、米国政府のてこ入れで作り出された状況から脱出しているのだ。

おい、トランプ大統領。なぜノルウェー人ではなくて、この人たちがアメリカに入りたいと強く求めているのか知りたいか? お前のテーブルの周りに座っている軍司令官の全員に聞いてみるが良い。非公式の場ではどれほど粗野な人間であっても(「snafu」〈スナフー〉や「fubar」〈フューバー〉という頭字語が軍隊起源だということを考えてみなさい*)、彼ら職業軍人は決して他国を軽蔑的な表現で呼んで軍の儀礼に反したりしない。今は19世紀ではないのだ。とはいえ、彼らの手は血で汚れている。

*訳註:「snafu」スナフーとは、situation normal all fucked upの略で、「状況はいつも通りめちゃくちゃ」の意。「fubar」フューバーとは、fucked up beyond all recognitionの略で、「原形をとどめないほどめちゃくちゃ」の意。どちらもfuckという汚い言葉が入っている。


ストーリーを裏返す


トランプはノルウェーのエルナ・ソルベルグ首相と会った後まもなく移民についてコメントした。トランプは当然のごとくノルウェーに心酔した。石油で富を得て白人が圧倒的多数の国を支配できたらいいのにと、トランプが思ったのは疑いない。

米国は現在、好調な株式市況と低い失業率に沸いているが、経済的困難が米国の多くの地域を覆っていることをトランプはとても良く知っている。その地域は大統領選の選挙人団で彼を第一位に押し上げた。その地域を、彼は大統領として訪れるのが大好きだ。そこに行けば大騒ぎの選挙集会を思い出す。そこでは支持率30%ではなくて、全観衆が彼を大好きだった。その地域はまた、富裕層を利するトランプの経済政策のせいで、これからも苦しみ続ける。

その地域は、敢えて言うが、トランプが「クソ溜め」とみなす場所だ。

これは私が言っているのではなくトランプ自身が言っている 。遡ること2015年5月、彼はマスコミにこう語っていた。「私はこの国を再び偉大にしたい。この国は地獄の穴 (hellhole) だ。我々は真っ逆さまに転落している。」

すでに述べたように、まず侮辱があり、次に流血がある。トランプは、ある意味で米国を侵略し、彼お得意の「炎と怒り」を自国で解き放ったのだ。彼は着々と、アメリカを99%の国民にとってのクソ溜めに変えつつある。彼が年中いそしんでいるのは、米国を「救う」ために破壊する仕事だ。

トランプは予言的だった。まさに我々は真っ逆さまに転落している。だがノルウェー人が救援に来ることはない。



筆者のジョン・フェファーは、米国の進歩的シンクタンク Institute for Policy Studies のプロジェクト、フォーリン・ポリシー・イン・フォーカス(FPIF)のディレクターで、ディストピア小説『Splinterlands』(分裂国家)の著者。

記事転載のお知らせ Link to my article on Nanjing Massacre and Lvshun (Port Arthur) Massacre in Shukan Kinyobi, reposted on Japan-China Labor Information Forum

『週刊金曜日』1月19日号に掲載された

旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねてー明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜

が『日中労働情報フォーラム』に転載されました。
http://www.chinalaborf.org/ryojungenocide/

これでネットでも誰にでも読んでもらえるようになりました。
転載の労を取ってくださった伊藤彰信さん(日中労働情報フォーラム代表)にお礼申し上げます。

乗松聡子 @PeacePhilosophy

Friday, February 02, 2018

稲嶺進名護市長より国防総省へ「辺野古・大浦湾における視察調査の許可の要請」 From Mayor of Nago, Okinawa to Pentagon: Letter of Request for Permission to Conduct Inspection at Henoko-Oura Bay

See below for for the English version. 

ジュゴン保護キャンペーンセンター」、「Okinawa Environmental Justice Project」の吉川秀樹さんからおしらせです!

1月31日、稲嶺進名護市長が米国防総省へ要請文を送付しました。市長選挙の忙し中でも、名護市の未来を考え、市長としての責任を果しているのが稲嶺進市長です。要請文(英文と和訳)を添付しますのでぜひご一読下さい。 
要請文の送付は、昨年8月に連邦地裁に差し戻しされ、現在審理が行われている米国での「ジュゴン訴訟」の今後の行方を視野に入れたものです。特に辺野古新基地建設によるジュゴンへの影響を巡って、国防総省が利害関係者と協議をすることを視野にいれての送付です。 
またこの要請は、昨年12月に名護市議会が出した決議を、市長が具体的行動で反映させたものと言えます。要請文で稲嶺市長は、1) 名護市が利害関係者として協議へ参加する意思があることを示し、2) 協議の準備のためにシュワブの視察の許可を求めています。 
また、ジュゴンの危機的状況はもちろん、埋立て工事の現状、日本政府のアセスの問題も示され、国防総省としても連邦地裁としても無視できない内容が示されています。名護市長の基地建設阻止のための重要な一手となるでしょう。 
今後国防総省との協議が始まれば、名護市長が国防総省に対して何を言うのかが重要になります。稲嶺進現名護市長なら、辺野古新基地建設の問題を明確に伝え、「海にも陸にも基地は造らせない」「豊かな辺野古・大浦湾の自然を守る」と主張していくでしょう。それが真の意味での、名護、沖縄の平和で豊かな暮らしに繋がっていくと思います。 
稲嶺市長の要請文を多くの人に読んで頂けたらと思います。
宜しくお願いします。

ジュゴン保護キャンペーンセンター
Okinawa Environmental Justice Project
吉川秀樹

以下日本語版に続いて英語版です。



See also:
Hideki Yoshikawa,
U.S. Military Base Construction at Henoko-Oura Bay and the Okinawan Governor’s Strategy to Stop It

ミハイル・ゴルバチョフ氏 沖縄へのメッセージ「軍事基地の島ではなく人々の島へ」Mikhail Gorbachev sends a message to Okinawa: Okinawa must be for the people, not for the military

Former leader of the Soviet Union Mikhail Gorbachev sent a message to Okinawa, which continues to suffer from military oppression from the United States and Japan by their forceful construction of a new military base. See below for an English translation.

ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連最高指導者が沖縄にメッセージを送った。1月31日の琉球新報に記事が載っている。

「沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ氏、沖縄県民にメッセージ 反基地の闘い支持

このメッセージの原文と、日本語訳、英語訳をここに紹介します。英語訳は日本語訳の訳であることをご承知ください。ブログ運営者が、Erin Jones さんの助力を得て行いまいた。



日本語訳

冷戦時代、オキナワに多数配備されていた核兵器に関する情報がNHKの番組等で明らかになったと知ったと同時に、現在もなお、オキナワに保管されているかも知れないという危惧で私は心を痛めている。この問題は県民に真実を公開する必要がある。
ゴルバチョフ氏

私はこれまで「核兵器の削減」もちろん最終目標としての「核兵器の完全撤廃」および「国際問題に軍事力を使用しない」という点を主張してきた。

1985年ジュネーブでのソ米首脳会談(私とレーガン大統領)で、“核戦争は一切起こしてはならない”“核戦争下での勝利者はいない”という共同宣言を採択し、世界に発信した。

こうした観点からオキナワでの軍事基地拡大に対する県民の闘いをこれまでも支持してきたし今後も支持する。

オキナワは世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化を有している。従ってオキナワは軍事基地の島ではなく、人々の島であり続けなければならない。

オキナワは自然・文化・観光資源のほか、地政学的にも恵まれており、世界の人々、文化、貿易が行き交うターミナルとしての環境が整っていると私は思う。

オキナワの将来の世代のためにも、この豊かな環境を活用し平和的な発展をめざされることを切に願う。

「戦争の文化から平和への文化の移行が必要だ!」
今年1月のローマ法王のこの言葉に私は心から賛同する。

ミハイル・ゴルバチョフ
2018年1月23日

Here is an English translation by Satoko Oka Norimatsu, with assistance by Erin Jones.

A message for Okinawa from Mikhail Gorbachev

Knowing now about the presence of nuclear weapons in Okinawa during the Cold War era, as revealed in a recent NHK program, my heart aches with concern that there could still be nuclear weapons stored in Okinawa. It is essential that the truth be disclosed to the residents of Okinawa.

I have always stood up for nuclear disarmament and ultimately a complete abolition of nuclear weapons. At the same time I have argued against the use of military force in resolving international disputes.

At the Soviet-US summit in Geneva in 1985, we (President Reagan and myself) issued a joint statement that said, “nuclear war cannot be won and must never be fought,” and disseminated it throughout the world.

From this perspective I have invariably supported the struggle against military expansion in Okinawa by the people of Okinawa, and I will support it from here on out.

Okinawa’s rich nature and distinctive culture make it unique in this world. Therefore the islands of Okinawa must be for the people, not for the military.

Other than the natural, cultural, and touristic resources, Okinawa is also blessed with its geopolitical location, which I believe allows it to be a terminal for international human and cultural exchange as well as trade.

It is my sincere hope that Okinawan people take advantage of this rich environment and aim for peaceful development of the islands, for the sake of future generations.

I wholeheartedly agree with the Pope’s words in January this year: “We need to shift from the culture of war to culture of peace.”

Mikhail Gorbachev
January 23, 2018


Sunday, January 28, 2018

上海、南京、大連、旅順の旅 My report of a historical study tour to Shanghai, Nanjing, Dalian and Lvshun

In December 2017, I travelled to Shanghai, Nanjing, Dalian, and Lvshun (Port Arthur), four places in China, to learn about the history of Japanese colonization and aggressive war in the continent. I was part of the tour organized by Nanjing Massacre researcher Tamaki Matsuoka. (For more information about Matsuoka in English, see USC Shoah FoundationXinhua, CGTNPeople's Daily.)The purpose of the tour was primarily to commemorate the 80th anniversary of Nanjing Massacre, and to learn the less known "Port Arthur Massacre" of 1894 during the Sino-Japan War of 1894-5. See also my latest article,
"From Nanjing to Okinawa – Two Massacres, Two Commanders."

昨年12月に参加した中国への旅の報告記事を紹介します。 「南京と沖縄」のつながりに注目した記事は12月4日、31日の『琉球新報』に掲載され、英語版が『アジア太平洋ジャーナル』(『グローバルリサーチ』に転載)に出ました。1月19日号の『週刊金曜日』には「旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて―明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜」という題で記事を出しています。この長いバージョンは「東アジア共同体研究所・琉球沖縄センター」の次号の紀要に掲載されます。

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 2017年12月13日 夕暮れ時


中国侵略戦争の記憶の地を訪ねる――上海、南京、大連、旅順

乗松聡子


2017年12月。
1937年同月、日本軍の南京攻略戦において捕虜、投降兵、敗残兵の大量虐殺、南京城内外と近郊農村において一般市民の虐殺・強姦、放火や略奪が大規模に繰り広げられた「南京大虐殺」から80周年を迎えた。この事件は37年12月初頭から約6週間にわたる期間に集中したが、傀儡の中華民国維新政府が成立する38年3月末頃まで起こった。だから「80周年」の追悼は、2018年の新年を迎えた今も、続いているのだ。

私はこの80周年の節目に南京にいたいと思い、昨年12月12日から19日、南京大虐殺研究者の松岡環氏が主宰する「第33次銘心会南京友好訪中団」にカナダから参加した。松岡氏は1980年代以来、30年余にわたり南京大虐殺をはじめ、中国全土での日本の侵略戦争の調査を行い、南京攻略戦に参加した元日本兵250名、南京大虐殺の被害者300名余から聴き取りを行った。その成果を国内外で出版、映画制作、講演活動等で発表してきている。

33回目となる今回の訪中団には松岡氏のほか14名、それに加え長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」から「第15回日中友好・希望の翼」として3名が合流し計18名が参加した。その内訳は大学生4名を含む、元教員、市民活動家、会社員など20代から80代までの多彩な背景を持つ人々であった。松岡氏によると、冬の訪中団は南京大虐殺の追悼日である12月13日を基軸に日程が組まれており、毎回南京に加え他の場所も訪れることによって日本の中国侵略戦争の歴史を幅広く学ぶねらいがある。今年は、上海半日、南京3日、大連1日、旅順2日の組み合わせであった。


上海 -「南京」前に虐殺は始まっていた

上海淞滬抗戦紀念公園
上海では、日本で「第二次上海事変」と呼ばれるが中国では「8・13淞滬抗戦」として知られる、1937年8月13日から3か月の、抗日民族統一戦線(第二次国共合作)による日本侵略軍との戦いを主に展示している上海淞滬抗戦紀念公園および紀念館を訪ねた。
上海淞滬抗戦記念碑に
献花する参加者
ここでは「世界反ファシズム戦争の東洋における初の大規模戦闘」と解説していたのには目を引かれた。上海は結局攻略されたとはいえ、軍民共に勇敢に戦い、日本側の「中国を3か月で降参させられる」という幻想(「一撃論」と呼ばれる)を打ち破ったという誇りが強調されている。

日本軍の残虐行為の展示コーナーでは、8月23日、宝山区羅涇鎮で無抵抗の2千人以上の市民が焼き尽くし殺し尽くされたという「羅涇大焼殺」があり、その被害者の名前が壁一面に記されていた。案内人を務めた紀念館の宣伝展示部主任である徐泌さんからろうそくの形をしているシールを一人一人渡され、それぞれが選んだ名前の下にシールを貼り、追悼の時間を持った。

羅涇大焼殺の被害者の名前(一部)
たくさんある名前の中からどこに貼ったらいいのか一瞬困惑したが、知らなくても被害者の一人を選び追悼することで、一人一人の被害者には名前と人生があったという当然のことを想い出させてくれた。この上海戦を遂行した松井石根率いる中支那方面軍(第十軍と上海派遣軍)が、略奪、放火、殺害、強姦を行いながらわれ先にと南京への300㎞の道のりを行軍したのである。「南京」を理解するためには上海戦を学ぶことが欠かせない。

南京-80周年の「国家公祭日」
12月12日夜、時速350キロの高速鉄道で1時間、上海から南京に移動した。明けて13日は南京大虐殺被害者を追悼する日だ。江蘇省および南京市の主催で1994年以来追悼式典を行っていたこの日は2014年に「国家公祭日」と指定された。早朝、追悼式典が開かれる侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館に向かうバスの中、団長の松岡氏はこの日の意義を語った。

「侵略戦争において、“惨案”(ツァンアン)と呼ばれる虐殺事件は、南京だけではなく中国全土で起こりました。調査でわかっているだけでも、100人以上の虐殺があったのは390か所、10人以上の虐殺があったのは2300か所にも及びます。」
松岡環氏

この日は全国で南京大虐殺の犠牲者を追悼する日だ。それぞれの地では、その地で起こった“惨案”のことも想起されるであろう。南京では、午前10時ちょうどに街中の車がクラクションを鳴らし、揚子江に浮かぶ船は汽笛を鳴らし、10時1分に1分間の黙とうをする。松岡氏の話を聞きながら私は、中国が全国的に追悼に包まれるこの日、南京大虐殺を否定あるいは過小評価する風潮がまかり通る当の加害国の日本でこの日の意味をわかっている者がどれだけいるのかと思い、暗澹とした気持ちにならざるを得なかった。

1時間ほどの式典は、約1万人の参列者が見守る中、おごそかに行われた。献花、そして荘厳かつ感情に訴えかける音楽若者の参加、放鳩、平和の鐘など、10年間広島・長崎の学習旅行にかかわってきた自分には、原爆の追悼式典と重なる部分が多かった。平和への願いを象徴するシンボルである紫金草は、広島の折り鶴を思い出した。南京の式典での放鳩はいつ終わるのかと思うほど多くが放たれたが、後から聞いたら犠牲者の数約30万を象徴した3千羽だったという。1羽に100人分の命がこめられていたと知り言葉を失う。

紀念館自体が虐殺の地に立っているのだ。代表演説を行った全国政治協商会議の兪正声主席は、「戦争の歴史を学ぶことによって、人々がよりよく歴史を認識し、平和を大事にすることができる。日本軍国主義が発動した中国を侵略した戦争は中国人民に巨大な災難をもたらしたが、日本人民にも同じく大きな災難をもたらした。」と語った。原爆の式典に米国市民が来るように、南京の式典にも日本人はいた。紀念館によると130人の参加があったという。広島・長崎の式典には米国大使が2010年以来参列しているが、南京の式典に日本政府の代表者はいない。

式典はカメラも電話も持ち込み禁止だったので写真は撮れなかった。午後に会場に戻ったときの片付けの最中の写真。

13日午後は、魚営雷や中山埠頭など、揚子江沿岸の虐殺現場を訪ねた。この日は紀念館の主会場だけではなく市内17か所の虐殺現場で同時に追悼式典が開催される。

揚子江沿い、幕府山近くの魚営雷の追悼碑
(1937年12月15日夜、日本軍は捕まえた兵員、武装解除された兵・官9千人余りをここで機関銃で集団射殺。同月、魚営雷・宝塔橋一帯で3万人あまりを再び殺害-碑文より抜粋)
挹江門にはその先の揚子江を渡って逃げようとした国民党兵士や市民が殺到した。行く手を塞がれ多数が虐殺された。南京崇善堂、紅卍字会などが1937年12月より1938年5月まで6回にわたって約5100体の遺体を埋葬した。

1万人以上が虐殺された中山埠頭の追悼碑で


行く先々で眩しいほどの真新しい献花に覆われた追悼碑を見るたびに、この虐殺事件がいかに広範囲で大規模に行われたか、そしていかに地域で明確に記憶されているかを肌で感じた。中山埠頭記念碑の近くで話しかけてきた呉継民さんは、父親が当時19歳の中国兵で、 12月12日に揚子江を渡って逃げ延びたという話をしてくれた。

同様に通りがかりで話しかけてきた大学生の胡陽志さん(同済大学浙江学院電気工学専攻2年生)は、後日くれたメールで「南京の門はあなたたちのために永久に開かれています」と書いてくれた。胡さんは、叔母の祖父が南京大虐殺の被害に遭っている。南京の人々は普段多くを語らないが、頭の片隅にいつもその辛い記憶が残っていると、22歳の胡さんは教えてくれた。

リニューアルされた紀念館の追悼スペース

13日の午後は、長年紀念館と交流してきた銘心会南京と日中労働者交流協会の訪中団に対し、リニューアルされた紀念館の展示を一般公開にさきがけて見学させてもらった。有り難いことである。紀念館に入ってすぐのところには現存する幸存者の写真パネルが並ぶ。紀念館に登録している幸存者でご存命なのが、17年9月末現在で98名ということだ。

キャンドル追悼集会
13日夕方は紀念館敷地内で開かれたキャンドル追悼集会に参列した。この集会には幸存者の夏淑琴さん、劉民生さんらが出席し、当時被害者の治療に献身したロバート・ウィルソン医師の息子もスピーチを行った。国家公祭日にはこのように当時南京難民区で救援活動をした、ジョン・ラーベら西洋人の子孫が10数名招かれていた。

式典後、会場で中国中央電視台の英語放送局CGTNから取材を受け、「日本人としてこの歴史への責任を感じる。歴史の否定が日本で蔓延しているからこそ、私たちのような日本人グループの参加に意義があると思う」と語った部分がその晩に放映され、ネットにもアップされている。当日はホテルのTVでどこのチャネルに行っても国家公祭日の各地での追悼式典の報道や特別番組をやっているという印象であった。広島で8月6日にTVをつけるときをまた連想する。

幸存者訪問
南京滞在中、幸存者お二人のお宅を訪問した。
劉民生さん
お一人は前日式典にも参加していた劉民生さん(男性、83歳)、もう一人は王津さん(女性、86歳)。「訪問」とは言っても簡単ではなく、松岡氏が長年かけて信頼関係を丁寧に築いた上で、日本人の大勢のグループを受け入れること受け入れてくれて、かつそれだけの人が入れるスペースのある家に住んでいる方たちである。劉さんも王さんも、幼かった当時、日本軍に父親を連れ去られて殺され、貧困の中大変な苦労をして生きてきた。このように一家の大黒柱が殺され、残された家族が貧困に苦しむ生活を余儀なくされたケースは無数にあったという。

松岡氏が「心のケア」と呼ぶこの訪問活動は、幸存者を日本に招聘してもそれっきりにはせず、辛い体験を話してくれた人に対してその後毎年必ず訪問を繰り返し、ケアするという姿勢で2001年から約50人に対して行ってきた。

王津さん
平和運動が戦争体験者を都合よく呼び出し、証言させてそのままにするのでは「人寄せパンダ」として利用しているに過ぎないとの松岡氏の指摘には、自分も自らの活動への反省を促された。劉さんの言葉「今の日本政府の高官たちは歴史をなくそうとしている。みなさん、この目で見た歴史を日本で伝えてください。一緒にがんばり平和な世界をつくりましょう」を心に刻み、南京を後にした。

南京から大連に向かう飛行機の中で、参加者の一人である大学生の島尾さんと話をした。大学では英語と中国語を学ぶ島尾さんは、日本で南京大虐殺を否定する傾向について、「もし自分の家族が被害を受けていたらどう感じるのか、考えないのだろうか」と、想像力の欠如を指摘した。南京訪問は初めてで、日本人が行くことで批判を受けるかと思ったが地元の人は心が広く、日中友好を求めていることがわかると語った。良識を持った日本の若い世代に希望を感じる。

大連―植民地支配下、略奪と搾取の玄関港
遼寧省・遼東半島の大連市といまは行政的には大連の一部となっている旅順口区。最初に訪れた大連現代博物館では、この地域が大国の植民地主義に翻弄されてきた現代史が学べる。そこの年表は「1840年の阿片戦争時イギリスの軍艦が遼東半島に侵入、清朝は金洲と沿海の港の防御工事を強化、1860年ふたたび英国軍が大連地区に侵入」という項目で始まる。清朝は1881年に旅順に軍港を建設、1888年に北洋艦隊を編成する。1894-5年の日清戦争後の下関条約で日本に割譲されたが「三国干渉」で返還、98年にロシアが強制的に租借権を得た。そして日露戦争(1904-5)の勝利で日本が遼東半島の権利を再獲得する。
大連現代博物館

大連は満州の玄関港として繁栄するが、その陰には中国人の奴隷的労役があった。博物館には重い荷役に苦しむ労働者たちの彫刻が展示され、「労働者の血の涙-日本人は埠頭で仕事をする人を“苦力”と呼んだ。その“苦力”には労働保護策はなく、毎日12時間働かされた。住まいの条件も悪く、毎日死傷者が出た。満鉄の統計によると、大連埠頭での荷下ろし作業で死傷人数は1911年には1469人、1921年には6435人、1925年から1930年に至る5年間には毎年3000-5000人の死傷者が出た。1929年には5385人死傷者があった。中国“苦力”は血と汗と命をもって大連港の繁栄を作った」とある。

「“工業日本”と“原料満州”との侵略政策による日本帝国主義は大連港を東北の資源を略奪する工具とした。1907年から1931年の間、大連港から石炭265.6万トン、円盤状に固めた豆かす1901.4万トン、大豆1495.7万トン、生鉄717.1万トン大豆油227.2万トンを輸出した。」あらためて、植民地支配というのはその地の資源も、人も、根こそぎ奪いつくすものなのだと思い知らされた。大連・旅順は日本の敗戦時ロシアの支配下に再び置かれ、1955年にようやく中国の主権下に戻ることになる。
見る者の心に重くのしかかる「労工血泪」展示

旅順-「南京」から43年遡る虐殺の系譜

この地に来た主要目的は「旅順大虐殺」の歴史を学ぶためだ。南京のことは知っていても1894年の日清戦争中の旅順大虐殺のことはどれぐらいの日本人が知っているだろうか。松岡氏は「日本人は100人いたら100人知らないと言えるほど知らない。聞いたことはあっても遠い昔に悲惨なことがあったな、程度」と断言する。恥ずかしながら私もその程度の認識であった。

井上晴樹『旅順虐殺事件』
(筑摩書房 1995年)
日清戦争(中国では甲午戦争)は、朝鮮に影響力を持つ清国を排除して朝鮮を日本の支配下に置くための侵略戦争であった。1894年7月23日に日本軍は朝鮮王宮の門を破壊して占領、その二日後の25日に黄海の豊島沖で日本海軍が北洋艦隊を攻撃、続いて朝鮮の清国軍に日本陸軍第一軍が奇襲をかける。朝鮮を制した第一軍は朝鮮・清国境を超えて10月24日清国に侵攻、それとは別に同日大山巌率いる第二軍は遼東半島花園口に上陸、金州に攻め入り虐殺、強姦や略奪を行う。11月21日に北洋艦隊拠点の旅順を占領、その日からおよそ4日間にわたり旅順の市民に対して、年寄りから子どもまでの無差別殺りく、女性の強姦、武器を捨てて無抵抗状態の清軍兵士・捕虜の虐殺を行い、犠牲者は約2万人と推定される。

12月16日、大連市内で、私たち訪中団のホスト役を務めてくれた大連中日文化交流協会、「日本語角」の人たちと一緒に松岡氏の「南京大虐殺」「旅順大虐殺」についての講演を聴いた。松岡氏は、以前この地で南京大虐殺の講演をしたとき、地元の参加者から「旅順のことも調べてくださいね」と言われたことがきっかけで旅順大虐殺の調査を始めたという。これら地元の中日交流市民グループには日本人メンバーも当然いるのであるがこの日の講演会には誰も来ていなかった。

松岡氏は講演で、次々と具体的な資料を示しながら話した。「旅順大虐殺」は、同行していた「伯爵写真家」亀井茲明が多くの証拠写真を残している(訪中団が訪問した大連現代博物館、旅順萬忠墓紀念館、旅順口風雲展覧館ではいずれも亀井の写真が展示されていた)。亀井は「日本兵は、兵農を問わず容赦せず殺した…流れる血、血なまぐさい匂いが満ち満ちて、のちに遺体は原野に埋葬した」という内容の記録も残している。山地元治第二軍第一師団長は「土民といえども我軍に妨害する者は残らず殺すべし」との命令を下している。
1894.12.20 クリールマンの記事。
(大連現代博物館の展示)

新聞記者のジェイムズ・クリールマンが『ニューヨーク・ワールド』という新聞に報道している。12月20日付の長い記事では、日本兵が「少なくとも2千人の無力な人々を虐殺」、「市街端から端まで掠奪」、「街路は切り刻まれた男、女、子どもの死体で埋め尽くさる。その一方で兵士ら、笑う」といった内容が書かれている。また、参戦していた日本軍夫の日記にも、子どもが裸で死んでいる有り様を見て目に涙をためたり、若い娘が露わな姿で死んでいるといった記述が残されている。この事件については、井上晴樹著『旅順虐殺事件』(筑摩書房、1995年)が詳しい。

123年前の出来事でもう幸存者はいないが、松岡氏は幸存者金純泰さんの娘、金道静さんから、父親からきいた話を聴き取っている。「寒風の中で虐殺がはじまった。11月21日日本軍が旅順に攻めてきた。幼い姉二人は泣くとまずいので家族によって井戸に投げ込まれ、男の血筋を守るためお祖母さんと母は2か月の父を抱いて逃げた。その後落ち着いてから帰ったら、近所に殺された人々の死体が山となって血が川のように流れていた」と金純泰さんは繰り返し道静さんに語ったという。

旅順大虐殺が起こった背景には、旅順に入るまえに土城子というところで日本軍が劣勢だったところ逃げ遅れた日本兵が清軍につかまり殺され、死体の耳をそがれたり腹を裂かれたりしたことがある。それに対し山地第一師団長が激昂し皆殺し命令をしたのだ。しかし山地の上官の第二軍司令官大山巌は虐殺をやめさせようとしなかった。そして当時の首相伊藤博文は虐殺を隠蔽することに奔走する。伊藤の命令で陸奥宗光外相は海外メディアに画策電報を打った。①清国兵は制服を脱ぎ捨てて逃亡した。②旅順で殺害された平服を着た者は、大部分が姿を変えた兵士であった。③住民は交戦前に立ち去った。④少数の残留した者は発砲し抗戦するよう命令され、そのように行動した。⑤日本軍は、日本兵捕虜の何名かが生きながら火あぶりにされたり、また責め苛まれたりした上、恐ろしいほどに切り刻まれた死体を見て大いに激昂した。⑥従来通り日本軍は軍規を遵守していた。⑦旅順陥落時に捕らえられた355名前後の清国人捕虜は好遇されており、二、三日うちに東京に連行される。⑥は誇張、他は全て嘘がある。松岡氏は、この日本政府による虐殺の否定の仕方は、南京大虐殺の否定派と全く同じであると語った。

虐殺の記憶の地を歩く
旅順では、地元の地理や歴史を知り尽くしている地域史研究家の姜広祥さんの案内で虐殺や埋葬の記憶の場を訪ねた。
姜さんの案内で
フィールドワーク
姜さんが40年務めた遼寧造船場は1883年創設の遼東半島一の清国の軍艦の造船所であった。日本軍が清国兵士や造船所労働者、その家族を沼地に追い込んで殺害した。造船所は約2000人の工人がおり、一人につき数人の家族がいたであろうことを考えると、被害総数は相当のものになっていたであろうと松岡氏は読む。

日本軍が虐殺の犠牲者の遺体を焼却処理した場所のうちの一つ、白玉山の北東の麓に「萬忠墓」がある。最初は1896年、清朝の役人が墓碑を建て、地域で死者を追悼する場となった。その後も何度かの修築を経て、1994年、旅順大虐殺100周年のときに「旅順萬忠墓紀念館」が建立された。この施設を訪れる者はまず眼前に立ちはだかるように「1894.11.21-24」と大きく刻まれた石壁と対峙する。虐殺が集中した4日間だ。大連や旅順の人々は決して忘れない日付だ。

旅順萬忠墓紀念館
植民地時代の監獄跡博物館

旅順で訪ねたもう一つの侵略戦争時代の遺産ともいえる場所が、「旅順日俄監獄旧址陳列館」である。
旅順日俄監獄旧址陳列館
1898年、旅順を強制的に租借したロシアは支配維持のため1902年にこの監獄を造り、日露戦争後は日本が引き継ぎ、増築した。2.6万平米に及ぶ構内には253室の牢屋、15の工場があり、一時に2000人収容可能であった。ここで日帝に抵抗する者を投獄、強制労働、拷問、処刑していたのである。

安重根が拘禁された監房
あらゆる人間性を否定する残酷行為が行われていたこの監獄は、「東洋のアウシュビッツ」と呼ぶ人もいるようだ。同様に植民地時代の監獄が博物館となっている、韓国の西大門刑務所跡を思い出す。
植民地にはこのように反抗する者を弾圧し恐怖で支配するための監獄が欠かせないのであろう。

この旅順の監獄には、中国人だけではなく朝鮮人や日本人も投獄された。1909年10月26日伊藤博文をハルビン駅で暗殺した安重根も、逮捕後すぐにこの監獄に収容されており、5か月後の1910年3月26日に死刑執行されている。外国人来訪客では韓国人が一番多いという。見学後、暖かい休憩所を提供してくれた周愛民副館長に「日本人も来ますか」ときいたら、「日本人は日露戦争の戦跡を見に旅順に来る人は多いが、ここにはあまり来ません」との答えだった。恥ずかしいことである。

副館長の周愛民さん(左から2人目)は日曜で休日なのに出てきてくれて、寒さがこたえる見学のあと、暖かい会議場を休憩場として提供してくれた。周さん以外は、私たちの旅順見学のガイドを務めた地域史研究家の方々。訪中団と意見交換をした。

旅順虐殺は「明治」賛美を打ち砕く

2018年は「明治維新150年」として、日本では数々の記念イベント、TV番組、出版などが目白押しの様相である。安倍政権はそれらを「明仁退位・徳仁即位」と組み合わせ、天皇中心の軍事帝国時代を賛美するような全国キャンペーンを展開し、自らのたくらむ明文改憲を後押ししようとしているように見える。

日本人の多くは、「大国米国に戦争をしかけた1941年12月の失策のせいで敗戦を招いた」という歴史認識を持っている。日本の加害を意識した人でも、1931年の満州侵攻以降の「15年戦争」という枠組みで考えている人が多い。しかしこの旅での学びが明らかにしたものは、南京大虐殺を生み出した皇軍の野蛮な性質と、アジアの隣人を人間として扱わない醜い差別感情は、決して「15年戦争」と言われる枠組みに収まるものではなく、それは旅順大虐殺に象徴されるように、明治期から脈脈と引き継がれた大日本帝国とその軍隊の本質だということだ。

大日本帝国は1874年の台湾出兵、75年の江華島事件をはじめ初期段階から国外武力行使を行っており、日清戦争は帝国初の本格的侵略戦争であった。日清、日露での勝利が日本の朝鮮や満州の植民地支配につながったのであるから、侵略戦争と植民地支配は明治初期から1945年の帝国破綻まで70年以上、切れ目なく続いていたのである。

広く読まれている司馬遼太郎の『坂の上の雲』に色付けされた日清、日露戦争を美化する歴史観がこの帝国の本質を見えなくしている。実際は、「旅順大虐殺」の史実だけを取っても「明治は古きよき時代」という神話は、いとも簡単に崩れ去るはずだ。

敗戦後の日本社会も70年余に及ぶ侵略戦争と植民地支配の歴史を総括せず、戦後世代に学ばせないことで偏見に無知が加わり、現在社会にはびこる「嫌中・嫌韓・嫌朝鮮感情」やヘイトスピーチといった現象につながっている。さらに「南京大虐殺はなかった」「“慰安婦”に強制はなかった」といった、歴史を積極的に否定することによってアジア隣人の心の傷に塩を塗り続けているのだ。このような社会の傾向に抗い、日本近現代史の事実から目を背けず真摯に学ぶことこそが、再び侵略国家になる道を阻止し、アジアの中で信頼され、平和構築に貢献することができる日本をつくるための基礎となると信じる。

旅順港の日没

(終)

★この学びの機会を提供してくださった松岡環さんと銘心会南京、旅を通じてガイド・通訳をしてくださった盛卯弟さん、大連中日交流協会と日本語角のみなさん、他、中国各地でお世話になった地元の方々、訪中団参加者の皆さまに心から感謝いたします。

★写真は、全て筆者撮影。

関連投稿
日本が克服すべき過去とは何なのか:成澤宗男

他、このブログの過去の「南京大虐殺」関連記事はこのリンクをどうぞ。日付の新しい順に過去投稿が出てきます。




Sunday, January 21, 2018

私にとっての朝鮮 小林はるよ Me and Korea: Kobayashi Haruyo

朝鮮半島のことがニュースで取り上げられる毎日です。オリンピック、日本軍「慰安婦」の歴史、「核・ミサイル」問題など。しかし私たちは日本人として、かつて日本が植民地支配を行った朝鮮半島とそこの人々、そこにゆかりのある人々にどう向かい合うのか、根本に立ち返って深く考えたことはあるでしょうか。このブログに何度か投稿してくれたことのある長野の有機農業家、小林はるよさんの寄稿は、私には読んでいてはっとする瞬間をいくつももたらすものでした。他の読者にとってもそうなのではないかと思い、ここに紹介します。@PeacePhilosophy


私にとっての朝鮮(2000年の時空)-1 古代

小林はるよ

最初の「世界」と最初の「朝鮮」
 私の経験した戦後日本の社会では、外国とは、世界とは、アメリカのことでした。それは、私が子どもだったからの単純な理解とは思いません。アジアと言えば、父が九死に一生を得て還ったフィリピン、父母の家族がいた台湾。でもどちらも、二度と戻ることのない過去の舞台というイメージでした。私が自力で新聞を読むころには朝鮮戦争は終わり、中華人民共和国は成立していました。

 私が初めて意識した「朝鮮」は、弟が憶えてきた「チョウセン、チョウセン」で始まる囃し唄でした。卑し気な嘲りの調子に、暗い気持ちになったことしか、憶えていません。

 大学生になってから「朝鮮」と、本の中で出会いました。教育史の本を読み、戦前の日本が、「朝鮮」を含む「植民地」の人々に、日本語を強制したことを知りました。学校では、母語を使ってしまった子どもに、首から「方言札」を下げさせ、叱り、罰したとありました。私は1945年までの日本の対アジア戦争のおよその経過を、高校日本史の授業で教えられましたが、それは「事変」名と起きた年代の羅列にすぎませんでした。

古代の「朝鮮」との出会い
 それから少しして私は、古代の「朝鮮」と出会いました。もともと古墳、遺跡に興味があった私は、金達寿という在日韓国人作家のシリーズ「日本の中の朝鮮文化」という当時刊行中だった著作を夢中で読むようになりました。金達寿は、日本各地の寺社や地域を一つ一つ訪ね、そこに現在住む人々から、言い伝えられている地名や遺跡の名前の由来、残されている額や碑等の記録を調べ、日本列島のたぶん関東北部のあたりまでの広い範囲に、朝鮮半島から日本に移住してきた集団の痕跡が残っていることを明らかにしていました。私はこのシリーズから、カンラ、またはカラ、コマというような地名が朝鮮半島由来の地名であることを知りました。たしか、金達寿は、ナラもそうだと書いていたと思います。

 「日本の中の朝鮮文化」と出会ってから、私は、古代の日本列島と朝鮮半島(以下、日本と朝鮮と略記)との関係史を読み漁り、その中での論争を知りました。古代の日本と朝鮮の関係史については大きく分けて2つの考え方があります。その1つは、「大和王権同心円的発展説」で、平城京、平安京を都とした「大和王権」つまり、現在の天皇家につながる王権が、近畿地方で成立し、同心円的に日本全土に支配を広げたという考え方です。もう1つは、「大和王権朝鮮半島由来説」、北東アジアから朝鮮半島を経て部族集団や小国家をつくりながら、日本列島に入ってきた人々の流れがあったという考え方です。

 この考え方によれば、朝鮮半島から移動してきた部族が最初に九州地方や山陰地方に小国家をつくり、そのうちの1つが、畿内に移動して大和王権を形成したことになります。「大和王権同心円的発展説」でも、古代の大和王権が朝鮮半島からの人の流れと密接に関係していたことを否定するわけではありません。それは、古事記や日本書紀の記述にもある事実で、当時の大和朝廷は朝鮮半島から来たばかりの人がさまざまな地位に就いて活躍する場で、いわゆる「言葉の問題」は全くなかったようです。言葉の面でも文化の面でも、血族関係においても、きわめて近かったことになります。

タブー
 戦前にはもちろん「大和王権同心円的発展説」が圧倒的でした。朝鮮半島からの人の流れは、大和朝廷の栄華・繁栄に協力・貢献するためと解釈されていました。そして、大和朝廷は列島内で勢力を確立しつつ、朝鮮半島に進出して版図を広げようとして朝鮮半島の小国家と争ったというのが、戦後の歴史教科書に続く、日本の古代の歴史認識です。

 私は日本の歴史を広く東北アジア地域の人の移動、文化の伝達の歴史の中で考えるべきという考え方に心惹かれ、断然、「大和王権朝鮮半島由来説」支持でした。日本列島と朝鮮半島の古代史を学ぶなかで、私は、朝鮮半島が文化的、政治的に日本列島よりも先進地域であったことを知り、認めることができました。古代の人の移動の大きな流れは、朝鮮半島から日本列島へであって、その逆ではなかったことは明らかでした。人の移動が文化的に進んだ、豊かな地域から、そうした文化を必要とする地域へという方向で起きることは当然のことです。ある地域から出ていく集団は、いわば、縄張り争いに敗れて、出ていくのです。未知の地に敢えて出ていく集団があるとは思えません。

 私は、日本が朝鮮半島を植民地化していた戦前、「大和王権同心円的発展説」を朝鮮半島にも強いて、遺物の改竄を試みたことさえあるのを知りました。そして、日本で「大和王権同心円的発展説」が主流であるかぎり、歴史的事実が事実として理解されることはないだろうと思いました。じっさい、「大和王権同心円的発展説」の眼鏡をかけていると、どんな遺跡も、「『大和朝廷の支配がその地域に及んでいた』ことを示す」ものになってしまいます。新聞等で、そうした考古学者の解説を見るたびに、日本ではあいかわらず、「大和王権同心円的発展説」が、学会の主流らしいことを知るのです。

 金達寿の本を読んでいたころ、書店の同じ書棚で「朝鮮人強制連行の記録」という本を購入しました。その本は、買ってから50年近くもたつのに、一度も開かないまま本棚にあります。事実の酷さ、非道さが想像できて、読むのがつらかったのです。日本列島と朝鮮半島の古代史を追うなかで、私は、近現代の日本が朝鮮半島の人々に対してしたことの非道さを、否応なく知るようになっていました。近現代の日本があれほど、朝鮮半島の人々を苛酷に侮辱的に支配したことについては、追われた側だった「分家」が、「本家」への嫉妬や対抗意識を、2000年近い時空を超えて、潜ませてきたせいかもしれません。

私にとっての朝鮮(2000年の時空)-2 今日

 一番近くて一番遠い
 古代史への関心を通じて、私は近現代の日本がいかに朝鮮半島の国と人々を侮辱し苛酷に対してきたかを知るようになっていました。とはいえ、1945年以降の、日本と東アジア地域との関わりについてのイメージは持てないままでしたが、韓国、中国、沖縄には、けっして旅行しないとは決心していました。「北朝鮮」のことはよくわかりませんでした。南北朝鮮は、私にとっては一番近くて一番遠い国々でした。

一枚の写真
 1990年に入り、50代に近くなって、私は「朝鮮」と再び、出会いました。そのきっかけは、1枚の写真でした。写真の中では、板で作られた幅の狭い小屋のような粗末な建物の前に、軍人らしい男性たち数人が、「順番」を待っていました。列の最後尾は、写真の端で切れて、数人の列だったのか、長蛇の列だったのかは、わかりません。でも、それはまさに「公衆トイレの前で順番を待つ」列でした。

 日本側が「従軍慰安婦」と呼んでいた女性たちの一人が、自分が「従軍慰安婦」だったことを初めて公表し、韓国から報道されたのは、1991年のことでした。その女性は金学順さん。金学順さんに励まされるかたちで、韓国内で、それからアジアの各地から日本軍の「従軍慰安婦」だったことを公表する女性たちが出てきて、「従軍慰安婦」問題は次第に全世界に知られることになっていきました。私が見た写真は、おそらく金学順さんが最初に名乗り出て、「従軍慰安婦」問題が世界の目に晒されることになったころ、ほんの一瞬のように日本の新聞紙上に現われたものではないでしょうか。その写真は今も、この問題に関連する書籍の中で探すことができるかもしれませんが、私は二度と見ていません。

 その列が、何をする順番を待っての列なのか、順番が来て小屋に入る人がその中で何をするのかは、一目でわかりました。その写真と「従軍慰安婦」という言葉を初めて見たとき、頭の中を稲妻が走りました。小屋と、その前の列に、古代から近現代までの日本と「朝鮮」との関わりの歴史のいっさいと、とりわけ、日本という社会での女性の地位や女性観の歴史のいっさいが反映しているような気がしました。

日本がいちばん認めたくないこと
 今でも、「金目当て」だったと言い立て、仲間うちで盛り上がっている人たちが日本にいますが、女性にはわかります。あの、昔の公衆トイレのような慰安所の中で被害女性たちが強いられた「こと」を、天にまで届く金塊を積み上げられても、やるという女性はいません。それが毎日毎日一日中続き、逃亡は不可能、逃亡して見つかれば殺されたはずです。あれは、売春、買春ではない、強姦でさえなかったと私は思います。あれは、くりかえし殺されていたに等しい拷問でした。じっさい、最後には、ほとんどの女性が若い命を失ってしまったはずです。名前どころか、何人いたのか、人数さえも残すことができずに。

 日本がアジアへの侵略のなかで国家的に実施した、この「従軍慰安婦」という制度には、日本人の一人である私には、言うもつらいことですが、とても卑しい、忌まわしいものがあります。それを心の奥底では認めるがゆえに、日本の兵士たちは、虐殺行為以上に、口止めされなくても口をつぐんだのではないでしょうか。日本の兵士の家族たちも、虐殺や略奪行為以上に、知りたくなく、聞きたくなかったのではないでしょうか。もし、なんの疚しいこともない、他の国もしている以上の悪いことなどしていないと言うのなら、なぜ、日本はこんなにもむきになって、清楚で上品な東アジアの少女たちが手をつないで立つ少女像を外国の町が建てるというのに反対するのでしょう。あるいは、チョゴリ姿の少女像が祖国の街角に座ることが、なぜ「反日」なのでしょう。

 犠牲になった大部分の女性たちは朝鮮半島出身者でした。日本人が遺伝子をもっとも共有する地域の女性、先進的な文化をもたらしてきた地域の女性たちでした。あまりに理不尽で不当な侮辱であるがゆえに、被害者側は被害を克明に主張するのも、傷にさらに塩を塗られるような苦痛でしょう。「日韓合意」ですが、就任当時の朴槿恵大統領が、「従軍慰安婦の恨みを、韓国民は、1000年たっても忘れない」と言っていたことを憶えています。あの「日韓合意」を私はとても訝しく思っていましたが、当時のオバマ政権の強い圧力があったと最近の報道で知りました。

沖縄での「従軍慰安婦」
 最新の沖縄県史によると、日本は、沖縄本島といくつかの島に少なくとも143か所の「慰安所」を設けていました。これは日本が沖縄をいわゆる「内地」と同等に扱わず、「外地」とみなし戦場と考えていた1つの証拠でもあります。そのために、じつは沖縄での慰安所のあり方から、従軍慰安所の実態が推測できる面があります。慰安所が、兵士の数に対してどのぐらいの数、どのぐらいの割合であったか、1か所での女性の人数はどのぐらいで、その中で朝鮮半島出身者の割合はどのぐらいだったか、生き残れたのは何人だったのか。

 朝鮮半島からの女性たちは、「朝鮮ピー」と呼ばれ、兵士が払う金(女性に直接払われたのではない)は、「朝鮮ピー」に対してはいちばん安く設定されていたそうです。沖縄の住民の証言によると、「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性たちには、色白で美しい人が多かったらしいのですが、みな、暗い顔をしていた、反抗的な態度を見せたりすると、それは苛酷に日本兵に罰されていたそうです。ほんとうに、日本は、「朝鮮」を徹底的に差別し、侮辱の限りを尽くしました。

 沖縄全体の慰安所にいた「慰安婦」の人数については、住民の証言によって推測するしかありませんが、そのうちの少なくとも1/2以上が、朝鮮半島出身だったようです。戦後、生存が確認された人は数人。そして、沖縄から朝鮮半島に帰ることができた人はいないようです。韓国で金学順さんが最初の告発者となった1991年に、沖縄でぺ・ポンギさんという朝鮮半島南部出身の、元慰安婦の方が亡くなっています。ジャーナリストの川田文子さんが「赤瓦の家」(筑摩書房)にポンギさんとの交流とポンギさんのこれまでの人生の軌跡を記録しています。

 韓国と書きましたが、もちろん、戦前には南北朝鮮の区別はなかったので、「従軍慰安婦」は朝鮮半島全土から集められていたはずです。20万人いたと言われる朝鮮半島出身者の中には、当然、今の「北朝鮮」の地域からの女性たちが南北の人口比に近い割合でいたでしょう。でも、その人たちの運命については、全くわかっていません。それに、朝鮮戦争がありました。「北朝鮮」地域は米軍と「国連軍」により、第二次大戦中に米軍が投下した全爆弾の量を上回る猛烈な爆撃を受け、人口の20%~30%が殺され、灌漑設備等も破壊され尽くしたと言われています。

 ポンギさんは、熱心に通いつめる川田文子さんに、「ほだされる」ことはなかったようです。ポンギさんは、沖縄が日本に「復帰」した後、沖縄県からの福祉予算を使っての支援の申し出を頑として拒絶し、在沖同胞からの援助だけで、考えうるかぎりの質素な暮らしを続けたと「赤瓦の家」に記されています。そのポンギさんは亡くなる少しまえ、朝鮮半島の地図を撫で、泣きながら、「祖国が再び一つになるまで、私は帰らない」と、訪れた支援の同胞の方たちに語ったそうです。

魂は雨になって降り風となって吹く
 
沖縄 韓国人慰霊塔

【韓国人慰霊の塔碑文】
1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。

願わくば安らかに眠られよ。 1975年8月 韓国人慰霊の塔建立委員会


 2012年に沖縄・摩文仁の丘で、他の碑文群と離れて立つこの碑文を読みました。この碑文の、「波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。」というところに衝撃を受けました。そう、祖国に「帰り得ざる」というところにも。私は、見えない冷たい手、見えない冷たい涙に打たれているような気がしながら、ハングル、日本語、英語で書いてある碑面に見入りました。日本人は、朝鮮半島の人々に赦されることはないのだと思い知ったのです。誰も死者に代わることはできないのですから。

 「祖国に帰り得ざる」と書かれている碑文の語る「多くの韓国人青年」が、沖縄の地で犠牲になったとき、彼の地は南北に分かれていたわけではありません。碑は「韓国人慰霊の碑」ですが、碑文を書いた人が、「祖国に帰り得ざる」人々と記したのは、ぺ・ポンギさんが語っていたように、「祖国が再び一つになるまで」との思いを込めてのことだったかもっしれません。

 分断された民族、悲劇の民族という言葉がありますが、朝鮮民族は、その言葉が世界でもっとも当てはまる民族の一つだと私は思います。
 今の朝鮮民族の分断に、いちばんの責任が、秀吉に始まる、日本の支配層にあることは明らかです。アメリカはそれにいわば、便乗し、利用したにすぎないと言えば「すぎない」のです。

自分には罪がないと思う者は石を投げなさい
 私は、新約聖書の中のこのエピソードが好きです。「従軍慰安婦」問題は、日本の「支配層」「お上」だけの責任、問題だとは思いません。日本人である私たちにはみな、「応分の責任」がある、と思っています。
 せめて、日本が二度と、分断に加担しないように、南北朝鮮が争わされることのないようにとばかり、願っています。

こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

小林はるよさんの過去の投稿
私にとっての中国 日本にとっての中国
終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった

※本文中の写真はブログ運営者が2011年5月撮影したものです。

Wednesday, January 10, 2018

ロヒンギャ問題:南アジアの多数派優位主義の歴史 Murderous Majorities by Mukul Kesavan, New York Review of Books

 ロヒンギャ問題をミャンマー人が語るとき、ロヒンギャへの頑なな憎悪に驚かされることがある。この背後には、仏教徒多数派が長年にわたって国民の間に醸成してきた多数派優位主義的感情がある。
 多数派優位主義の中では、多数派の政治的基盤を固めるために少数派の迫害を利用する。大虐殺が起きるたびに、多数派優位主義の政党が勢力を伸ばしていく。このような動きがミャンマーだけでなく南アジアの各国で繰り返し起きてきたことは、歴史をひもとけば明らかだ。
 ガンジーが夢見ていた「一つのインド」は実現せず、パキスタンとインドに分割されて独立したこと自体が、少数派になりたくないというイスラム教徒の望みから出たことだった。インドは独立後しばらく多数派優位主義に抵抗していたが、1983年のアッサム州ネリーのイスラム教徒虐殺事件以後くりかえし起きる大虐殺をきっかけに、多数派優位主義へと突き進んできた。今ではほとんど全ての南アジア諸国が宗教的多数派優位主義の政治体制になってしまった。
 ミャンマーは仏教徒が多数を占めたが、その中に英領インド時代から何世代も住んでいるイスラム教徒を抱えている。イスラム教徒であるロヒンギャを国民と認めないことで選挙権を剥奪し、議会にイスラム教徒が一人もいない状態を実現したのは、皮肉にも民主化プロセスの中で起きたことだった。
 今もロヒンギャの脱出は止まらず、バングラデシュ領内に難民となったロヒンギャの行き先が見つかったわけでもない。だが世界の人々がロヒンギャ問題を忘れ、ロヒンギャ問題の報道が沈静化すれば、ミャンマーの多数派優位主義者は我が意を得たりと勢いづくことになる。その意味でも、この問題に関心を向け続ける必要がある。
 ふり返って日本を見れば、安倍政権が振りまく排外主義的言動とポピュリズムが、南アジアの多数派優位主義と重なって見える。これは全世界的現象なのだろうか、あるいは国民国家というシステムが抱える根本的な問題なのだろうか。

 定評ある書評誌ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス2018年1月 18日号掲載に掲載された歴史家ムクール・ケサバンの書評『Murderous Majorities』を翻訳して紹介する。
 ムクール・ケサバンはニューデリーの大学ジャーミア・ミリア・イスラーミアで植民地時代のインド史を教えている。

原文はこちら。
(注:翻訳はアップ後微修正することがあります。)
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多数派が殺意を抱くとき


ムクール・ケサバン


『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』
アジム・イブラヒム著、ムハマド・ユヌス序文
ハースト刊、改訂新版、239ページ、£12.99 (ペーパーバック)

『ミャンマーにおけるイスラム教と国家:イスラム教徒・仏教徒間関係と帰属の政治』
メリッサ・クラウチ編
オックスフォード大学出版局刊、345ページ、$55.00


 ロヒンギャはイスラム教徒のコミュニティーで、その居住地はミャンマー西部ラカイン州の北部に集中している。ラカイン州にはイスラム教徒が何千年にもわたり暮らしてきたが、その人口は植民地時代に英領インド、特にベンガル地方からの移住によって著しく増えた。最近バングラデシュへの集団強制移住が起きる前は、ミャンマー国内のロヒンギャ人口は百万人を少し上回ると推計されていたが、この数字は論争の的になっている。政府はロヒンギャを正当な呼び名と認めたくなかったので、最新の国勢調査にはロヒンギャが含まれていなかった。ミャンマーの軍部指導者が1978年と1990年代初頭、2012年に実施した「一掃作戦」のとき近隣のバングラデシュに逃げ込んだロヒンギャ難民を含めると、総人口はもっと多くなりそうだ。

 ラカイン州とミャンマー全土には他にもイスラム教徒のコミュニティーがあるが、唯一暴力的差別の的にされてきたロヒンギャとは、文化的・民族的に異なる。ロヒンギャの方言ははっきり異なり、民族的に「よそ者」だ。ラカイン州北部に集まって住んでいることが組み合わさると、ミャンマー指導者の目に映るロヒンギャは、同化不可能で、仏教国を自認するこの国の統合に対する脅威だ。

 2017年8月の末に、ロヒンギャ過激派がラカイン州北部でナイフと手製爆弾を使って警察署を襲った。12人の治安部隊員が殺された。ミャンマー軍はロヒンギャの村々への焼き討ちで報復し、民間人の殺害とレイプを行い、50万人以上のロヒンギャを、バングラデシュに逃げざるを得ない状況へ追い込んだ。

 この民族浄化の規模こそが、南アジアにおける多数派優位主義政治の、最も高らかな勝利を表している。ロヒンギャの迫害のおかげで、ミャンマーは近隣諸国の多数派優位主義政党にとって、お手本ともいえる存在になった。ヒンドゥー教国家主義のインド人民党(BJP)が率いるインド政府は8月中旬、インド国内にいる4万人のロヒンギャ(以前の集団脱出による難民)は不法移民だから強制送還すると発表した。9月初めに、ミャンマー軍による「一掃作戦」の凶暴性が知られるようになり集団脱出の規模が明らかになった後でさえ、ナレンドラ・モディ政権では誰一人として声を上げず、一国の政府がしばしば蔓延する人間の苦悩を認めるために使う形式的な憂慮の表明さえ行われなかった。

 多数派優位主義(国家の政治的運命は宗教的あるいは民族的な多数派が決定すべきだという主張)は、南アジアの国民国家と同じくらい古くからあり、脱植民地化の原罪だ。植民地独立後の南アジア諸国は、程度の差はあれ大筋では多元的で非宗教的な国家という理想を掲げて出発したが、独立から約10年を経て、軍部指導者に権力を奪われるか、多数派優位主義政治家によって宗教国家に変貌した。

 パキスタンはイスラム教徒が多数派の国を作るため英領インドから切り出された。建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーは時に非宗教的国家の考えを支持するかと見えたものの、1947年インド分割(インド・パキスタン分離独立)の時の大量虐殺ともいえる暴力の結果、同国から非イスラム教徒の少数派を事実上排除してしまった。短命に終わった1956年憲法で、パキスタンは自国を正式にイスラム共和国と定義し、以後60年以上にわたって続いている。

 スリランカ(当時のセイロン)は、1948年に非宗教的国家として建国されたが、1956年までにシンハラ人仏教徒の政治家が押し切る形で仏教共和国と再定義され、仏教徒多数派の言語であるシンハラ語を唯一の国語に定めた。この多数派優位主義の動きは、同国の北部と東部に集中する相当数の非仏教徒少数派であるタミル語の話者を隅に追いやることを狙ったものだった。パキスタンから1971年に独立を勝ち取ったバングラデシュは、ベンガル語を話す非宗教的な国として建国されたが、1975年のクーデターの後、軍事政権がイスラム共和国へと変えてしまった。(最高裁判所が2010年に世俗主義を回復したが、イスラム教はバングラデシュの公式宗教のまま残った。)

 ミャンマーを第二次世界大戦後にイギリスから独立させ1947年に暗殺されたアウンサン将軍は、非宗教的な共和国を思い描いていた。しかしミャンマーを独立国家として確立した1948年の憲法は、ほとんどの少数民族に完全な市民権を与えたものの、ロヒンギャには与えなかった。1950年代を通じて、ウー・ヌ初代首相の政府はロヒンギャコミュニティーの存在を認め、ロヒンギャに市民権を与える見通しを示した。1961年の国勢調査では「ロヒンギャ」を一つの人口分類として認めさえした。ミャンマーの明確な仏教国への変貌は1962年に始まり、軍事政権がクーデターで権力を掌握し、仏教国家主義のイデオロギーを押し付けた。この動きが頂点に達した1982年の市民権法は、ロヒンギャが完全な市民権を得ることを公式に否定した。

 皮肉にも、それは2012年から2017年の民政移行期間に起きた。そのとき同国は民族浄化を通して、また民主的手続きと制度から公式にロヒンギャとイスラム教徒全般を排除することによって、純粋に多数派優位主義の政治形態となった。2012年の暴力は(2017年の民族浄化の前兆だったが)、12万人のロヒンギャをラカイン州北部の街から追放し国内強制移住者のキャンプに閉じ込める結果となった。2014年の国勢調査は「外国人」少数派を排除するように作られたもので、ラカイン州の人口のほぼ3分の1がカウントされなかった。これはロヒンギャがベンガル人イスラム教徒と名乗ることを拒否したためで、もしそれを認めてしまうと、ロヒンギャは外国人であって国民ではないという主張に信用を与えかねないと考えられた。この国勢調査は、2015年に行われる同国初の民主的選挙のための新しい選挙人名簿の作成に使われたが、実質的にロヒンギャから選挙権を剥奪し、結果として独立後初めてミャンマー連邦議会からイスラム教徒が完全に消えた。

 政府はその年、ロヒンギャに保健・教育サービスの権利を与えていた登録カードを没収した。このカードは近年まで選挙権の証でもあったが、選挙権は政権が気まぐれで与えたものだった。またこのカードはロヒンギャが持つ身元や居住を示す唯一の公式書類だった。これらの行政処分により、ラカイン州とミャンマー全体で仏教徒が首尾良く支配権を握った。

 選挙プロセスと連邦議会の両方から重要な少数派が消えるということは、南アジアの多数派優位主義者の積年の果たせぬ夢である全面勝利と同然のものだ。ミャンマー選挙の1年前の2014年に、ナレンドラ・モディがBJPを率いてインド総選挙で絶対多数を取った。モディの多数獲得は、BJPから一人もイスラム教徒の連邦議会議員を出さなかったという点で歴史的だった。だが他党から23人のイスラム教徒がインド連邦議会の下院であるローク・サバー(Lok Sabha)に選出されているので、ミャンマーの議会に一人もイスラム教徒がいないというのは多数派優位主義にとってさらに徹底した勝利だった。インドの右派ヒンドゥー教国家主義政党がイスラム教徒から距離を置くのは驚くことでもないが、ミャンマーでイスラム教徒の候補を一人も立てなかったのは、アウンサンスーチーの党であるリベラル野党の国民民主連盟(NLD)だった。

 NLDがイスラム教徒の候補を排除したのには戦略的な理由があったかもしれない。過激主義者の僧侶が扇動した反ロヒンギャ感情に便乗し、民主制への微妙な移行期間では軍の偏見に従ってラカイン州の仏教徒多数派との敵対を避けるため。あるいはNLD党員の偏見のためだ。その結果、既に立場を脅かされている少数派は政治的に疎外された。イスラム教徒を連邦議会から排除し60万人のロヒンギャを乱暴に追放したミャンマーは2017年、宗教的多数派による政治的支配の達成を確実なものにした。

 アジム・イブラヒム著『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』はラカイン州で起きている悲劇の客観的な歴史を装ったりしない。これは党派心に基づいた本で、読者に訴えているのは悲劇の歴史理解ではなく、その緊急性と洞察だ。長く待たれていた選挙の直後、2015年に完成したこの本は、民主制への移行により、悲劇的にもロヒンギャはさらに排斥された弱い立場に置かれ、NLDと軍が迫害を止めようと動かない限り、追放の可能性がこれまで以上に高まったと警告する。2017年9月の暴力の後で書かれた改訂版ペーパーバックの終章で、イブラヒムはこの予測の正当性の証拠を検討し、「不安定な状況がコミュニティー全体の民族浄化へとエスカレートするのを我々は見ているのだ」と主張する。彼の洞察、特に2015年の民主制移行を扱った部分はこの本を薦めるに十分な理由だ。

 多数派優位主義は別種の市民権を強く主張する。多数派の宗教と文化を持つ者を真のミャンマー国民とみなす。その他は厚意による国民、つまり多数派のゲストであって、礼儀正しく敬意を持って振る舞うことを期待される。あくまで多数派の計らいによって許容されているのであって、近代民主制での完全な市民権に代わるものではない。中ぶらりんの状態で、慢性的に不安定な状態だ。少数派の完全な市民権を否定するような政治形態は、遅かれ早かれ、少数派の政治的権利を奪う。また居住者であっても全く国民とはいえず、実際は別の地域(インド、パキスタン、タミル・ナードゥ州、あるいはロヒンギャの場合バングラデシュ)に属しているという理由で追放する。ミャンマーには3種類の市民権がある。国民、準国民、そして帰化国民だ。ロヒンギャは外国人に分類される。

 1980年代に至るまで多数派優位主義の誘惑に公式に抵抗していた南アジア唯一の国はインドだった。1950年に立憲制共和国として建国され、世界第3位のイスラム教人口を抱える同国は、相当数のイスラム教徒少数派を、完全で対等な国民として扱った。80%がヒンドゥー教にもかかわらず、インドの宗教的少数派はヒンドゥー教文化への同化を求められているというような感覚は、公式にはなかった。この同化を要求した政党は、モディ首相のBJPの政治的祖先にあたるインド大衆連盟(Bharatiya Jana Sangh)のような弱小地域政党だけだった。共和国の建国から25年の間、ジャワハルラール・ネルーと、続いて娘のインディラ・ガンディーの指導の下、インドは憲法の上では非宗教的国家に留まった。

 1970年代末から1980年代初頭に、非常事態を受けて政治的バランスが変化し、インディラ・ガンディーは1975年から1977年まで独裁的統治を試みた。だが新たな政治を形作った要因には大虐殺もあった。1983年に、ベンガル人を祖先に持つ2千人のイスラム教徒が、アッサム州ネリーの街でわずか数時間のうちに虐殺された。(非公式推計は死者数を1万人以上としている。)虐殺を実行した土着のアッサム人はイスラム教徒をバングラデシュからの不法移住者と考え、その名前が選挙人名簿に載っていることを問題にした。当時比較的新しい国家だったバングラデシュは、同情を示さない隣国民から人口輸出をする国と見なされ、こうした移民はベンガル語を話すイスラム教徒のことが多かったので、外見も言葉も「よそ者」として目立った。

 1983年のアッサム大虐殺はインド政治の転機となった。反イスラム教運動をエスカレートさせて大虐殺を起こした学生組織が政党を結成し、次の地方選挙で易々と勝利を収めた。この事件が示したことは、不法移民が深刻な問題であること、ベンガル人イスラム教徒が政治的なスケープゴートにされたこと、そして最も重要なのは、大虐殺が政治的な利益になりうるということだ。

 1984年に、インディラ・ガンディーが2人のシク教徒の警護警官に暗殺された結果、デリーその他の場所で組織的なシク教徒殺しが起きた。彼女の息子ラジーヴ・ガンディーは、この大虐殺後の選挙で大勝し、ネリーの虐殺の教訓が、今度は国家レベルでより強固なものになった。ボンベイ(1992年〜1993年)とグジャラート州(2002年)で続いて起こったイスラム教徒の大虐殺の後には、シヴ・セーナー(Shiv Sena)やBJPのような暴力に加担する政党が選挙で勝利を収めた。公式には少数派の権利剥奪はなかったが、インドの多数派優位主義政党は少数派に対する暴力を煽れば選挙で票が集まることを学んだ。

 多数派優位主義の暴力は南アジア全域で権力への近道となった。ミャンマー、パキスタン、バングラデシュでは、権力基盤の不安定な軍部指導者が国家を宗教的多数派に寄り添わせることで正当性を得ようとし、インドとスリランカでは侵略的な少数派によって国家が転覆されつつあるという考えを広めた先住民優位主義の政党が選挙に勝利した。20世紀の終わりまでに、多数派優位主義政党は全ての南アジア諸国で政権の座に着くか野党第一党になっていた。

 ミャンマーのイスラム教徒と政府の関係を取り上げた論文集『ミャンマーにおけるイスラム教と国家』にベンジャミン・ションサルが寄稿した小論で、ミャンマーにおける仏教徒の多数派優位主義がスリランカにおけるシンハラ人の先住民優位主義とどれほど似ているかを例証し、最近行われたある会合のことを指摘する。それはスリランカのボドゥ・バラ・セーナ(Bodu Bala Sena:仏教の力の軍)と、反イスラムを明言するミャンマー僧が率いる969運動の間で持たれたものだ。969運動で最もイスラム嫌いの説教者として知られるアシン・ウィラトゥ(Ashin Wirathu)が2014年の末にコロンボを訪れ、ボドゥ・バラ・セーナと969運動の相互理解に関する覚え書きに署名した。両国の国民は「より広い地域的な枠組みの中で自分たちの行動を見はじめている」ことをションサルは示す。

 論文集の別の小論でニーニー・チョー(Nyi Nyi Kyaw)は、969運動の政治運動と、インドの民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh)やBJPのようなヒンドゥー狂信的愛国主義者組織の政治運動とを比較した。高いとされている男性イスラム教徒の生殖能力と、一夫多妻の風習は、ミャンマー仏教徒の将来にとって脅威と見なされる。ここでの主張は、イスラム教徒の男性が「愛のジハード(聖戦)」を仕掛けているというものだ。イスラム教徒の男性が仏教徒の女性を誘惑するのは「生殖戦術のためだ。やつらはたくさん子どもを作り、雪だるま式に殖える」と、969運動の僧アシン・ウィマラール・ビウンタ(Ashin Wimalar Biwuntha)が非難したことを、チョーは指摘する。

 「愛のジハード」や「ロメオのジハード」という言葉は、ヒンドゥー教の頑迷さを示す語彙から直接取ってきたものだ。BJPとその党員は「愛のジハード」を実践するいわゆる侵略的イスラム教徒との戦いに全力で取り組み、街角の自警団が「反ロメオ隊」を組織している。インドで最も人口の多いウッタル・プラデーシュ州の首相は、ヨギ・アデッテナート(Yogi Adityanath)というヒンドゥー教の僧で、ヒンドゥー教青年軍(Hindu Yuva Vahini)という私的な民兵組織を何年にもわたって養い、この実体のない敵に対する戦いを続けている。じっさい、彼が2016年に州首相に選出された最大の理由は、「ヒンドゥー教のストリートギャング」をイスラム教徒に立ち向かわせる彼の能力に実績があったからだった。

 急速に繁殖し布教活動を行うイスラム教徒による人口絶滅という想像上の脅威は、インド、スリランカ、ミャンマーで多数派優位主義を動員するために中心的なものだ。インドのいくつかの州では改宗を厳しく規制する法律を可決した。その暗黙の目的はイスラム教やキリスト教への改宗を防ぐことだが、一方でヒンドゥー教への改宗は復帰と見なされ、ガル・ワプシ(ghar wapsi)つまり「帰郷」と呼ばれる。ヒンドゥー教の多数派優位主義の話法では、イスラム教徒とキリスト教徒は全てヒンドゥー教徒を祖先に持つということになる。

 ミャンマーは、少数民族を乱暴に追放し、残留する者の権利を剥奪し、仏教徒の狂信的愛国主義者の偏見を法律にしてしまう能力において、南アジアにおける多数派優位主義の先導者であり続けている。ビルマ語名称の頭文字を取って「マ・バ・タ」と呼ばれる人種宗教信条保護機構は、人種宗教保護法と総称されていた法案を可決させる運動として2013年に始まった。2年あまりの間にこれらの法案は議会で承認され大統領の署名を受けて法律となった。

 一夫一婦制、避妊、改宗、異宗教間結婚(イスラム教徒が暗黙の標的)に関するあらゆる法律の中で、目に余るほど甚だしく差別的なのは「ミャンマー仏教徒女性の特別結婚法」だ。20歳未満の仏教徒の女性は非仏教徒と結婚する際に親の同意が必要となる。地域の戸籍係には結婚申請書を掲示する権限が与えられる。誰からも異議申立がなかった場合に限り二人は結婚できるが、全ての国民は異議を唱えることができ、その結果として法廷で異議申立を受けなければならない。離婚の場合は、女性が自動的に子を引き取ることになる。この法律の目的は、仏教徒女性と非仏教徒男性の結婚をできる限り難しくすることだ。ミャンマー政府が宗教の擁護者として傑出することができたのは、宗教に基づいて自国の多数派に有利なように法的に差別したからだということに、南アジアの全ての国々の僧、聖職者、多数派優位主義者たちは気付くことだろう。

 南アジアでの多数派優位主義はイスラム教徒を標的にするとは限らない。反抗的な少数派全般を罰する必要から引き起こされるのでもない。多数派優位主義政治の原因は、丹念に構築された多数派の自己イメージだ。自分たちは敵に虐げられ包囲されていて、長く苦しみを受けてきたので、これ以上黙って苦しむのは拒否すると強く信じているのだ。この被害感覚の醸成は、必ず続いて起きるリンチ、大虐殺、民族浄化の必要前提条件だ。

 多数派優位主義は機会均等を頑迷に主張する。スリランカでは、タミル・タイガー(タミル・イーラム解放のトラ)が敗北し、タミル人の故郷を作るという目標は最終的に破棄されたが、ほとんど急進的先住民優位主義者を落ち着かせる役には立たなかった。シンハラ・ラバヤ(Sinhala Ravaya:シンハラ国家の咆哮)や、ラバナ・バラヤ(Ravana Balaya:ラバナの力、スリランカを支配したと信じられている伝説の王を指す)、ボドゥ・バラ・セーナにとっては、タミル人に代わってイスラム教徒が、シンハラ人仏教徒国家としてのスリランカの統合を脅かす存在となった。イスラム教徒のコミュニティーは内戦で孤児となった。イスラム教徒はタミル語を話すので長年にわたってスリランカ国家から不信感を抱かれてきたが、タミル・タイガー支配地域からもタミル人らしさが足りないので追い出された。現在、新たなイスラム教徒の脅威は、人口、金融(通商と産業を支配していると思われているので)、多国籍の問題と見られている。なぜなら一地域のイスラム教徒は、仏教徒世界をイスラム化するもっと広域の共謀の一部として見られるからだと、ションサルは書く。だが、スリランカの多数派優位主義者はイスラム教徒だけを叩くとは限らない。国民遺産党(Jathika Hela Urumaya)が長らく行ってきた、仏教以外への改宗に厳しい制限を課す法案を推進する運動は、キリスト教伝道者に対する嫌悪によって拍車がかかった。

 ほぼ全人口がイスラム教徒(97%)のパキスタンでさえ、少数宗派のイスラム教徒を標的にした。1974年から同国は15年にわたるイスラム化のプロセスを開始し、アフマディ派の信者を非イスラム教徒と断定し、「神への冒とく法」を可決して少数派を迫害するため日常的に使うようになり、シーア派に対し恐ろしい暴力行為を進んで働くスンニ派原理主義組織をひいきにした。イスラム教徒が多数を占めるもうひとつの国バングラデシュでは、ヒンドゥー教徒の人口が減少してきた。シェイク・ハシナ首相の下でバングラデシュ国家はより世俗的になったが、ヒンドゥー教徒、少数民族、無神論者にとっては依然として危険だ。

 最近のミャンマーからのロヒンギャ追放は非難の嵐を巻き起こしたが、これに対してアウンサンスーチー国家顧問やミャンマーの広報官からだけでなく、歴史家、政策専門家、外国人外交官からも弁護の回答が出された。もしこのミャンマーの政策を擁護する主張によって、平時では最大(1990年代半ばに2百万のルワンダ人が国を追われて以来)の強制集団脱出を正常なものと言いくるめることができれば、南アジア全域の少数派はこれまで以上に迫害に弱い立場に置かれることになる。

 ラカイン州での暴力に対するインドの最初の反応は、大虐殺を暗に是認するものだった。インド首相がミャンマーを公式訪問中の9月6日に発表された共同声明によると、「先日ラカイン州北部でのテロ攻撃が発生し、ミャンマー治安部隊員が何人も命を落としたが、インドはこれを非難した。テロリズムは人権を侵害すること、したがってテロリストを殉教者として賛美するべきではないことを、両国で合意した。」共同声明はロヒンギャ難民の集団脱出について一言も触れなかった。ニューデリーでの会議で発言したインドの外務長官は、ミャンマーを批判しないように注意深く言葉を選んだ。

 「多数の人々がラカイン州から集団脱出しているという事実は、明らかに憂慮すべきものです。我々の目標はどうすれば彼らが元いた場所へ戻れるかを見守ることです。簡単ではありません。この状況の解決は、ただ非常に激しく糾弾するのではなく、現実的な対策と建設的な議論を通して行うほうが良いと、我々は感じています。」

 ミャンマー政府とアウンサンスーチーに対する主に西洋諸国からの激しい糾弾は、過剰で、過度に単純化しすぎで、重要なことを分かっていないと批判されてきた。多数派優位主義者の主張では、仏教徒はこれまで西洋諸国の人権団体に巧みに陳情することができなかったので、ロヒンギャの被害者意識に基づく物語はラカイン州仏教徒の心の傷を覆い隠すものだということになる。この主張では、植民地解放の時からラカイン州北部にイスラム教徒の独立自治区を作るよう求めている武装ロヒンギャの活動が強調される。ラカイン州でのイスラム教徒コミュニティーはイギリスが19世紀初頭にビルマを併合した後で大幅に拡大し、ベンガル地方からこの地域への移民の流入を許したという事実が強調される。もし外国人が対立する民族国家主義者の犠牲となったこれら二つのコミュニティーをもっと公平に扱おうとするのなら、ベンガル人イスラム教徒の侵入を受けたラカイン州仏教徒の恨みを、もっと長い歴史の中に位置づける必要があると主張する。

 この立場の問題点は、歴史的な因果応報に公平性などあり得ないことだ。イスラム教徒の残忍な扱いを支持する主張の意味を理解するには、ビルマ人仏教徒のいう土着民と外来者の区別を市民権と帰属の根拠として受け入れるしかない。ロヒンギャが民族として認めて欲しいと要求する理由は、ミャンマーで完全な市民権を得るには、「国家人種」(タインギンタ:taingyintha)のどれかに属していることが必要だからだ。ラカイン州のイスラム教徒を国家人種(タインギンタ)から除外し、何世代にもわたり居住しているにもかかわらず国家人種(タインギンタ)からの除外にもとづいて市民権を否定する政府の政策は、堂々巡りという点でカフカの小説のように不条理だ。オーストラリアの学者ニック・チーズマンは国家人種(タインギンタ)についての記事の中で、「究極的にはミャンマーの問題は『ロヒンギャ問題』ではなく『国家人種(タインギンタ)問題』で…、国家人種(タインギンタ)という概念そのものが問題なのだ」と指摘する。

 この最近の残虐行為を報じるニュースのほとぼりが冷めたなら、ミャンマー政府はラカイン州に存在するロヒンギャを減らす計画が実績を上げていると信じる理由ができるだろう。スリランカの仏教徒はブミプットラ(bhumiputra:大地の息子)で非仏教徒はムレッチャ(mlecchas:劣等外国人)だと信じる同国の先住民優位主義者は勢いづくだろう。過去にバングラデシュの不法移民が暴力のきっかけとなったアッサム州のBJP政府は、民族浄化を少なくとも「大地の息子」が行う場合は、加害者がどこまでやっていいかについて、新たな教訓を学ぶだろう。

 最近の暴力について声を上げている反対運動の多くは、ヨーロッパ諸国、外国の人権団体、国連機関から発したものだという事実は、ミャンマー政府とその擁護者を増長させ、何も知らない部外者やプロの「悲しみ屋」の仕業だとして無視している。だがこの殺意ある追放は、西洋諸国と非西洋諸国の間の紛争ではない。ロヒンギャの民族浄化は、南アジアでの多数派優位国家主義の長い歴史の中で、特に悪意のある事件だ。その歴史を認識し、その遺産に異議を唱えなければ、さらに多くの悲劇が待ち構えている。

2017年12月20日

(本文終わり)
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