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Sunday, January 21, 2018

私にとっての朝鮮 小林はるよ Me and Korea: Kobayashi Haruyo

朝鮮半島のことがニュースで取り上げられる毎日です。オリンピック、日本軍「慰安婦」の歴史、「核・ミサイル」問題など。しかし私たちは日本人として、かつて日本が植民地支配を行った朝鮮半島とそこの人々、そこにゆかりのある人々にどう向かい合うのか、根本に立ち返って深く考えたことはあるでしょうか。このブログに何度か投稿してくれたことのある長野の有機農業家、小林はるよさんの寄稿は、私には読んでいてはっとする瞬間をいくつももたらすものでした。他の読者にとってもそうなのではないかと思い、ここに紹介します。@PeacePhilosophy


私にとっての朝鮮(2000年の時空)-1 古代

小林はるよ

最初の「世界」と最初の「朝鮮」
 私の経験した戦後日本の社会では、外国とは、世界とは、アメリカのことでした。それは、私が子どもだったからの単純な理解とは思いません。アジアと言えば、父が九死に一生を得て還ったフィリピン、父母の家族がいた台湾。でもどちらも、二度と戻ることのない過去の舞台というイメージでした。私が自力で新聞を読むころには朝鮮戦争は終わり、中華人民共和国は成立していました。

 私が初めて意識した「朝鮮」は、弟が憶えてきた「チョウセン、チョウセン」で始まる囃し唄でした。卑し気な嘲りの調子に、暗い気持ちになったことしか、憶えていません。

 大学生になってから「朝鮮」と、本の中で出会いました。教育史の本を読み、戦前の日本が、「朝鮮」を含む「植民地」の人々に、日本語を強制したことを知りました。学校では、母語を使ってしまった子どもに、首から「方言札」を下げさせ、叱り、罰したとありました。私は1945年までの日本の対アジア戦争のおよその経過を、高校日本史の授業で教えられましたが、それは「事変」名と起きた年代の羅列にすぎませんでした。

古代の「朝鮮」との出会い
 それから少しして私は、古代の「朝鮮」と出会いました。もともと古墳、遺跡に興味があった私は、金達寿という在日韓国人作家のシリーズ「日本の中の朝鮮文化」という当時刊行中だった著作を夢中で読むようになりました。金達寿は、日本各地の寺社や地域を一つ一つ訪ね、そこに現在住む人々から、言い伝えられている地名や遺跡の名前の由来、残されている額や碑等の記録を調べ、日本列島のたぶん関東北部のあたりまでの広い範囲に、朝鮮半島から日本に移住してきた集団の痕跡が残っていることを明らかにしていました。私はこのシリーズから、カンラ、またはカラ、コマというような地名が朝鮮半島由来の地名であることを知りました。たしか、金達寿は、ナラもそうだと書いていたと思います。

 「日本の中の朝鮮文化」と出会ってから、私は、古代の日本列島と朝鮮半島(以下、日本と朝鮮と略記)との関係史を読み漁り、その中での論争を知りました。古代の日本と朝鮮の関係史については大きく分けて2つの考え方があります。その1つは、「大和王権同心円的発展説」で、平城京、平安京を都とした「大和王権」つまり、現在の天皇家につながる王権が、近畿地方で成立し、同心円的に日本全土に支配を広げたという考え方です。もう1つは、「大和王権朝鮮半島由来説」、北東アジアから朝鮮半島を経て部族集団や小国家をつくりながら、日本列島に入ってきた人々の流れがあったという考え方です。

 この考え方によれば、朝鮮半島から移動してきた部族が最初に九州地方や山陰地方に小国家をつくり、そのうちの1つが、畿内に移動して大和王権を形成したことになります。「大和王権同心円的発展説」でも、古代の大和王権が朝鮮半島からの人の流れと密接に関係していたことを否定するわけではありません。それは、古事記や日本書紀の記述にもある事実で、当時の大和朝廷は朝鮮半島から来たばかりの人がさまざまな地位に就いて活躍する場で、いわゆる「言葉の問題」は全くなかったようです。言葉の面でも文化の面でも、血族関係においても、きわめて近かったことになります。

タブー
 戦前にはもちろん「大和王権同心円的発展説」が圧倒的でした。朝鮮半島からの人の流れは、大和朝廷の栄華・繁栄に協力・貢献するためと解釈されていました。そして、大和朝廷は列島内で勢力を確立しつつ、朝鮮半島に進出して版図を広げようとして朝鮮半島の小国家と争ったというのが、戦後の歴史教科書に続く、日本の古代の歴史認識です。

 私は日本の歴史を広く東北アジア地域の人の移動、文化の伝達の歴史の中で考えるべきという考え方に心惹かれ、断然、「大和王権朝鮮半島由来説」支持でした。日本列島と朝鮮半島の古代史を学ぶなかで、私は、朝鮮半島が文化的、政治的に日本列島よりも先進地域であったことを知り、認めることができました。古代の人の移動の大きな流れは、朝鮮半島から日本列島へであって、その逆ではなかったことは明らかでした。人の移動が文化的に進んだ、豊かな地域から、そうした文化を必要とする地域へという方向で起きることは当然のことです。ある地域から出ていく集団は、いわば、縄張り争いに敗れて、出ていくのです。未知の地に敢えて出ていく集団があるとは思えません。

 私は、日本が朝鮮半島を植民地化していた戦前、「大和王権同心円的発展説」を朝鮮半島にも強いて、遺物の改竄を試みたことさえあるのを知りました。そして、日本で「大和王権同心円的発展説」が主流であるかぎり、歴史的事実が事実として理解されることはないだろうと思いました。じっさい、「大和王権同心円的発展説」の眼鏡をかけていると、どんな遺跡も、「『大和朝廷の支配がその地域に及んでいた』ことを示す」ものになってしまいます。新聞等で、そうした考古学者の解説を見るたびに、日本ではあいかわらず、「大和王権同心円的発展説」が、学会の主流らしいことを知るのです。

 金達寿の本を読んでいたころ、書店の同じ書棚で「朝鮮人強制連行の記録」という本を購入しました。その本は、買ってから50年近くもたつのに、一度も開かないまま本棚にあります。事実の酷さ、非道さが想像できて、読むのがつらかったのです。日本列島と朝鮮半島の古代史を追うなかで、私は、近現代の日本が朝鮮半島の人々に対してしたことの非道さを、否応なく知るようになっていました。近現代の日本があれほど、朝鮮半島の人々を苛酷に侮辱的に支配したことについては、追われた側だった「分家」が、「本家」への嫉妬や対抗意識を、2000年近い時空を超えて、潜ませてきたせいかもしれません。

私にとっての朝鮮(2000年の時空)-2 今日

 一番近くて一番遠い
 古代史への関心を通じて、私は近現代の日本がいかに朝鮮半島の国と人々を侮辱し苛酷に対してきたかを知るようになっていました。とはいえ、1945年以降の、日本と東アジア地域との関わりについてのイメージは持てないままでしたが、韓国、中国、沖縄には、けっして旅行しないとは決心していました。「北朝鮮」のことはよくわかりませんでした。南北朝鮮は、私にとっては一番近くて一番遠い国々でした。

一枚の写真
 1990年に入り、50代に近くなって、私は「朝鮮」と再び、出会いました。そのきっかけは、1枚の写真でした。写真の中では、板で作られた幅の狭い小屋のような粗末な建物の前に、軍人らしい男性たち数人が、「順番」を待っていました。列の最後尾は、写真の端で切れて、数人の列だったのか、長蛇の列だったのかは、わかりません。でも、それはまさに「公衆トイレの前で順番を待つ」列でした。

 日本側が「従軍慰安婦」と呼んでいた女性たちの一人が、自分が「従軍慰安婦」だったことを初めて公表し、韓国から報道されたのは、1991年のことでした。その女性は金学順さん。金学順さんに励まされるかたちで、韓国内で、それからアジアの各地から日本軍の「従軍慰安婦」だったことを公表する女性たちが出てきて、「従軍慰安婦」問題は次第に全世界に知られることになっていきました。私が見た写真は、おそらく金学順さんが最初に名乗り出て、「従軍慰安婦」問題が世界の目に晒されることになったころ、ほんの一瞬のように日本の新聞紙上に現われたものではないでしょうか。その写真は今も、この問題に関連する書籍の中で探すことができるかもしれませんが、私は二度と見ていません。

 その列が、何をする順番を待っての列なのか、順番が来て小屋に入る人がその中で何をするのかは、一目でわかりました。その写真と「従軍慰安婦」という言葉を初めて見たとき、頭の中を稲妻が走りました。小屋と、その前の列に、古代から近現代までの日本と「朝鮮」との関わりの歴史のいっさいと、とりわけ、日本という社会での女性の地位や女性観の歴史のいっさいが反映しているような気がしました。

日本がいちばん認めたくないこと
 今でも、「金目当て」だったと言い立て、仲間うちで盛り上がっている人たちが日本にいますが、女性にはわかります。あの、昔の公衆トイレのような慰安所の中で被害女性たちが強いられた「こと」を、天にまで届く金塊を積み上げられても、やるという女性はいません。それが毎日毎日一日中続き、逃亡は不可能、逃亡して見つかれば殺されたはずです。あれは、売春、買春ではない、強姦でさえなかったと私は思います。あれは、くりかえし殺されていたに等しい拷問でした。じっさい、最後には、ほとんどの女性が若い命を失ってしまったはずです。名前どころか、何人いたのか、人数さえも残すことができずに。

 日本がアジアへの侵略のなかで国家的に実施した、この「従軍慰安婦」という制度には、日本人の一人である私には、言うもつらいことですが、とても卑しい、忌まわしいものがあります。それを心の奥底では認めるがゆえに、日本の兵士たちは、虐殺行為以上に、口止めされなくても口をつぐんだのではないでしょうか。日本の兵士の家族たちも、虐殺や略奪行為以上に、知りたくなく、聞きたくなかったのではないでしょうか。もし、なんの疚しいこともない、他の国もしている以上の悪いことなどしていないと言うのなら、なぜ、日本はこんなにもむきになって、清楚で上品な東アジアの少女たちが手をつないで立つ少女像を外国の町が建てるというのに反対するのでしょう。あるいは、チョゴリ姿の少女像が祖国の街角に座ることが、なぜ「反日」なのでしょう。

 犠牲になった大部分の女性たちは朝鮮半島出身者でした。日本人が遺伝子をもっとも共有する地域の女性、先進的な文化をもたらしてきた地域の女性たちでした。あまりに理不尽で不当な侮辱であるがゆえに、被害者側は被害を克明に主張するのも、傷にさらに塩を塗られるような苦痛でしょう。「日韓合意」ですが、就任当時の朴槿恵大統領が、「従軍慰安婦の恨みを、韓国民は、1000年たっても忘れない」と言っていたことを憶えています。あの「日韓合意」を私はとても訝しく思っていましたが、当時のオバマ政権の強い圧力があったと最近の報道で知りました。

沖縄での「従軍慰安婦」
 最新の沖縄県史によると、日本は、沖縄本島といくつかの島に少なくとも143か所の「慰安所」を設けていました。これは日本が沖縄をいわゆる「内地」と同等に扱わず、「外地」とみなし戦場と考えていた1つの証拠でもあります。そのために、じつは沖縄での慰安所のあり方から、従軍慰安所の実態が推測できる面があります。慰安所が、兵士の数に対してどのぐらいの数、どのぐらいの割合であったか、1か所での女性の人数はどのぐらいで、その中で朝鮮半島出身者の割合はどのぐらいだったか、生き残れたのは何人だったのか。

 朝鮮半島からの女性たちは、「朝鮮ピー」と呼ばれ、兵士が払う金(女性に直接払われたのではない)は、「朝鮮ピー」に対してはいちばん安く設定されていたそうです。沖縄の住民の証言によると、「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性たちには、色白で美しい人が多かったらしいのですが、みな、暗い顔をしていた、反抗的な態度を見せたりすると、それは苛酷に日本兵に罰されていたそうです。ほんとうに、日本は、「朝鮮」を徹底的に差別し、侮辱の限りを尽くしました。

 沖縄全体の慰安所にいた「慰安婦」の人数については、住民の証言によって推測するしかありませんが、そのうちの少なくとも1/2以上が、朝鮮半島出身だったようです。戦後、生存が確認された人は数人。そして、沖縄から朝鮮半島に帰ることができた人はいないようです。韓国で金学順さんが最初の告発者となった1991年に、沖縄でぺ・ポンギさんという朝鮮半島南部出身の、元慰安婦の方が亡くなっています。ジャーナリストの川田文子さんが「赤瓦の家」(筑摩書房)にポンギさんとの交流とポンギさんのこれまでの人生の軌跡を記録しています。

 韓国と書きましたが、もちろん、戦前には南北朝鮮の区別はなかったので、「従軍慰安婦」は朝鮮半島全土から集められていたはずです。20万人いたと言われる朝鮮半島出身者の中には、当然、今の「北朝鮮」の地域からの女性たちが南北の人口比に近い割合でいたでしょう。でも、その人たちの運命については、全くわかっていません。それに、朝鮮戦争がありました。「北朝鮮」地域は米軍と「国連軍」により、第二次大戦中に米軍が投下した全爆弾の量を上回る猛烈な爆撃を受け、人口の20%~30%が殺され、灌漑設備等も破壊され尽くしたと言われています。

 ポンギさんは、熱心に通いつめる川田文子さんに、「ほだされる」ことはなかったようです。ポンギさんは、沖縄が日本に「復帰」した後、沖縄県からの福祉予算を使っての支援の申し出を頑として拒絶し、在沖同胞からの援助だけで、考えうるかぎりの質素な暮らしを続けたと「赤瓦の家」に記されています。そのポンギさんは亡くなる少しまえ、朝鮮半島の地図を撫で、泣きながら、「祖国が再び一つになるまで、私は帰らない」と、訪れた支援の同胞の方たちに語ったそうです。

魂は雨になって降り風となって吹く
 
沖縄 韓国人慰霊塔

【韓国人慰霊の塔碑文】
1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。

願わくば安らかに眠られよ。 1975年8月 韓国人慰霊の塔建立委員会


 2012年に沖縄・摩文仁の丘で、他の碑文群と離れて立つこの碑文を読みました。この碑文の、「波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。」というところに衝撃を受けました。そう、祖国に「帰り得ざる」というところにも。私は、見えない冷たい手、見えない冷たい涙に打たれているような気がしながら、ハングル、日本語、英語で書いてある碑面に見入りました。日本人は、朝鮮半島の人々に赦されることはないのだと思い知ったのです。誰も死者に代わることはできないのですから。

 「祖国に帰り得ざる」と書かれている碑文の語る「多くの韓国人青年」が、沖縄の地で犠牲になったとき、彼の地は南北に分かれていたわけではありません。碑は「韓国人慰霊の碑」ですが、碑文を書いた人が、「祖国に帰り得ざる」人々と記したのは、ぺ・ポンギさんが語っていたように、「祖国が再び一つになるまで」との思いを込めてのことだったかもっしれません。

 分断された民族、悲劇の民族という言葉がありますが、朝鮮民族は、その言葉が世界でもっとも当てはまる民族の一つだと私は思います。
 今の朝鮮民族の分断に、いちばんの責任が、秀吉に始まる、日本の支配層にあることは明らかです。アメリカはそれにいわば、便乗し、利用したにすぎないと言えば「すぎない」のです。

自分には罪がないと思う者は石を投げなさい
 私は、新約聖書の中のこのエピソードが好きです。「従軍慰安婦」問題は、日本の「支配層」「お上」だけの責任、問題だとは思いません。日本人である私たちにはみな、「応分の責任」がある、と思っています。
 せめて、日本が二度と、分断に加担しないように、南北朝鮮が争わされることのないようにとばかり、願っています。

こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

小林はるよさんの過去の投稿
私にとっての中国 日本にとっての中国
終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった

※本文中の写真はブログ運営者が2011年5月撮影したものです。

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